村田 省蔵
村田 省蔵(むらた・しょうぞう)
quinta-feira, 13 de outubro de 2011

 ブラジル移民といえば、直ちに連想されるのは、その輸送機関を握っている大阪商船である。ブラジル移民と大阪商船とは、正に不可分の関係だといっても、過言ではあるまい。そして、その大阪商船と南米とを、密接に結びつけた最有力者は、村田省蔵氏であろう。

 明治41年(1908)以後、大正5年(1916)までの臨時船時代に、東洋移民会社は、日本郵船と事業上密接な関係があって、常に郵船の汽船を傭用し、またブラジルに送出す移民数が一船を艤すのに足りない場合は、欧州航路の定期船を利用し、欧州の一港で、ブラジル行外国船に乗り継がせたこともあった。こうした時代を経過して、南米定期航路は、大正5年(1916)12月、まず大阪商船によって開始され、翌6年(1917)4月、日本郵船もまた定期航路を開いた。

 昭和6年(1931)の春、郵船、商船両社の協定が成立して日本郵船が南米東海岸航路を廃止するまで、前後15ヵ年間両社の併立時代が続いた。

 大阪商船は、定期初航海に際し、第一回ブラジル移民輸送の歴史をもつ、笠戸丸を配した。同船はその後一旦、海軍省に帰属していたのを、明治45年(1912)3月、商船が払下げを受けた。笠戸丸は、大正5年(1916)12月29日、横浜を出航し、ケープタウン廻りでリオ・デ・ジャネイロを経て、ブエノス・アイレスに到着した。また定期第二船のたこま丸も、大正6年(1917)3月に神戸を出港した。当時は、移民の誘入が中絶していた時代であった。

 大正6年(1917)6月、第三船しあとる丸が、横浜から就航し、笠戸丸を除く他の2隻を以て、年4航海としたが、更に同年10月、ぱなま丸を加えて就航船を3隻とし、航海度数を年7回に増加した。越えて7年(1918)、移民数の増加に鑑み、前記7航海の外に、臨時に、はわい丸、あるぷす丸、来福丸をこれに配し、同時に各船の復航船腹の閑散に備えて、一部船舶の北米経由復航を開始した。そしてこの計画に従った第一船は、大正7年5月に横浜を出帆したぱなま丸で同船は復航にブエノス・アイレスからサントス、リオ・デ・ジャネイロ、トリニダット、ヤントルシア、ニュー・オルレアンス、パナマ、サン・フランシスコを経て、日本に帰航したが、その際、ブラジルからニュー・オルレアンスへ珈琲を、ニュー・オルレアンスから日本へ棉花、銑鉄等を輸送して、好成績を収めたので、爾後これを継続し、9年(1920)2月には更にかなだ丸、めきしこ丸、しかご丸の3隻を加えて6隻で、年10航海をすると共に、復航は全部北米経由とした。

 これより先き大阪商船は、大正6年(1917)7月から、最早補助を受ける必要がなくなった。北米航路の補助を辞退し、その代りとして、開航日なお浅い、南米航路に対する補助申請が、漸く大正9年(1920)に政府の容れるところとなり、10月以降、逓信省の命令航路となった。その命令航路第一船は、大正9年10月に神戸を出帆したかなだ丸であった。

 命令航路となって以来の大阪商船の南米航路は、大正9年(1920)1月同航路に対して逞ましい意欲を有する村田省蔵氏が、専務取締役に就任し経営の中枢を握るに至って拍車をかけ、躍進一途、業績は逐年上昇した。

 村田氏は、明治11年(1878)12月6日、京都府に生れた。明治33年(1900)7月、東京高等商業学校を卒業後、直ちに大阪商船に入社した。

 大正12年(1923)9月から、大阪商船の船は復航に、ブラジルのエスピリト・サント州のヴィトリアに、臨時寄港を開始すると共に、12月には、従来のたこま丸に代えて、まにら丸を就航せしめ、大正14年(1925)12月に南米向けの渡航旅客輸送船として特に建造した、当時に於けるわが国最初の快速型ジーゼル船さんとす丸を就航せしめ、次いで15年(1926)5月さんとす丸型のらぷらた丸を、同8月には更にもんてびでお丸を就航せしめて、旧型のめきしこ丸と、ぱなま丸を撤退せしめた。

 以上、南米航路の改善発展は、村田氏に俟つところ真に大なるものがあり、昭和4年(1929)1月、村田氏は副社長に栄進のあと、同年9月以降アマゾン流域の出入口である、ベレン港に寄港を開始し、第一船まにら丸は9月16日に、日本船として初めて同港に投錨した。同4年11月には、まにら丸に代えて、1万屯級のぶえのすあいれす丸を就航せしめ、航海回数を年11回に増加し、昭和5年(1930)6月には、ぶえのすあいれす丸と同型の、りおでじゃねいろ丸がはわい丸に代り、その使用船5隻は、ことごとくジーゼル船となった。

 昭和9年(1934)6月、村田氏は社長に就任、益々南米航路に力を入れ、昭和14年(1939)5月には、2万屯の豪華輸送船あるぜんちな丸を竣工せしめて同航路に配し、続いて、同15年(1940)1月、同型のぶらじる丸を新造して、南米航路をますます強化したが、両豪華輸送船の就航後間もなく、わが国は大戦に突入し、移民どころではなくなって、あるぜんちな丸、ぶらじる丸の両船も、航空母艦に徴用せられ、惜しむべし、南海の藻屑となったのである。

 この間、昭和12年(1937)7月、平生釟三郎氏の意向に基づき、海外移住組合連合会を基盤として、日南産業株式会社が創立された際、村田氏も取締役としてこれに参画した。また、昭和14年(1939)、貴族院議員に勅選され、翌15年(1940)7月に成立した近衛第二次内閣では、逓信大臣兼鉄道大臣となり、第三次近衛内閣にも引きつづき留任した。同18年(1943)には特命全権大使に任ぜられて、フィリッピンに駐剳したが、敗戦と共に戦犯に問われて、巣鴨に拘置された。

 昭和23年(1948)12月、今の総理大臣岸信介氏等と共に、放免されて巣鴨を出たが、かねて岸氏と懇意であった鳥谷富雄氏(日本海外協会連合会常任理事)が岸氏を訪ねて、「日本を背負った偉い人が、巣鴨で囚れの生活を送られましたが、その中で平素と少しも態度の違わなかった人はどなたですか」と訊ねたところ、「それは村田さんでした。アメリカ人に卑下するでもなく、平然として、少しもその態度に変化がありませんでした」と答えたそうである。そういう人ならば会って見たいというので、鳥谷氏は岸氏の紹介状をもらって村田氏を訪ね、それがきっかけとなって、昭和27年(1952)6月、石橋湛山氏を会長として海外移住協会が成立した時に、村田氏を顧問に仰ぎ、昭和28年(1953)11月財団法人日本海外協会連合会が創立されるに及んで、村田氏を初代会長に推挙した。しかしその後、多忙を理由として、海外協会連合会の方は、副会長だった元大使の坪上貞二氏に会長を譲って相談役となった。

 追放解除となった村田省蔵氏は、昭和26年(1951)外務省顧問となり、同29年(1954)には、日比賠償交渉の全権大使となった。また同30年(1955)には、中国と国際貿易促進のため、北京へ赴き、同年日中貿易協商委員会の委員長に推された。その間中国、印度、欧米各地へも出張し、日本国際貿易促進協会長、フィリッピン協会長等をも兼任した。昭和32年(1957)3月15日逝去。

 終戦後、大阪商船は、その経営復活の最大目標の一つを、永年培った伝統的地盤である南米航路の再開においた。

 種々の困難を排除して、まず、その社船大阪丸をもって、アルゼンチンのフロタ社のチャーターの許に、昭和25年(1950)7月、事実上の定期復活を図り、次いで、9月には、第二船長崎丸を同様の形式で配船した。

 このころ、日本と南米東海岸間には、アルゼンチンのフロタ・メルカンテ社、ローヤル・インターオーシャン社及び日本の大阪商船と大同海運が、それぞれ定期又は不定期的に配船していたが、大同海運は後日の優先権を保留して、申請撤回の了解が出来たので、日本船としては、関係当局より大阪商船一社に対し、昭和25年(1950)11月27日付で、正式に定期航路の許可が下り、本格的定期第一船として、同年12月神戸丸の来伯となった。神戸丸のサントス港入りは、終戦後の母国とブラジル在留邦人の新たなる繋りの曙光として、感激を以て迎えられたものである。

 その後、乏しい船腹を割いて、年間12航海にまで増配するに至ったが、日伯、日亜間に確たる通商協定がなかったので、大阪商船の当時の苦闘は、誠に深刻を極めたものであった。他日を期して隠忍し、1952年9月、日伯通商協定が締結され、翌年4月、日亜通商協定を見るに至って、荷動量も増大し、新たに移住者輸送の任務も生じたので、これを機として同年5月、従来の南アフリカ廻り南米航路とは別に月一回のパナマ経由、東廻り南米航路を新設し、東廻り、西廻りを併せて年間24航海という目覚ましい復活振りを示すに至った。

 逐年増加する移住者輸送の万全を期すべく、さらに、あめりか丸、あふりか丸の大改造を実施、本格的南米航路客船ぶらじる丸(二世)の建造、さんとす丸の改造を断行、五十年祭の佳年1958年4月には新造船あるぜんちな丸(二世)の進水を見、7月11日、サントス港着という画期的な大躍進振りを示すに至った。

 日本移民渡伯五十年祭が、1958年6月18日、イビラプエラ公園内に於て、畏くも三笠宮並びに妃殿下を迎えて盛大に行われた。笠戸丸来伯以来の半世紀、長いこの五十年間の大阪商船の歩みは、日本とブラジル、即ち大阪商船を媒介とする日本民族の南米発展史そのものであることを思うとき、生前、大阪商船会社々長として、両国の緊密化に献身した、故村田省蔵氏も以て瞑すべきであろう。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros