ブラジル物故
先駆者列伝
 戦前に活躍したブラジル日系移民先駆者たちの 「列伝」。1958年に日本移民五十年祭委員会によっ て編纂された『物故先駆者列伝:日系コロニアの礎 石として忘れ得ぬ人々』から紹介。当研究所森田監 事の解説はこちら
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terça-feira, 20 de maio de 2014
 この書の編纂に当って一と役を負わされたにもかかわらず、何等なすところなく、主として、桑原忠夫氏と輪湖俊午郎氏の執筆された原稿に眼を通させて頂いたに過ぎない。
 また印刷は、パウリスタ印刷株式会社へ依頼した関係上、出版に経験深い河野寛氏に総ての点で少なからぬ配慮を煩...
quinta-feira, 13 de março de 2014
 サンパウロ市のコンデ・デ・サルゼーダス街は、初期移民の忘れ難い、日本人町である。坂上の三角屋敷「赤煉瓦のサルゼーダス伯爵邸」で有名な街で、コンセリェイロ・フルタ-ド街とグリセリオ街(旧スダン球場)をつなぐ短い通りであるが、中心地に近く至極便利な場所である。

 大...
quinta-feira, 16 de janeiro de 2014
 山科禮蔵氏は、元治元年(1864)1月14日に広島県で生れた。広島の遷喬社で英学を勉強し、桜南社で漢学を学んだ。

 明治17年(1884)上京して、吉備商会及び海事工業所を設立し、築港や架橋の仕事に携り、さらにまた手をのばして、遭難船の救助や引揚等の業務にも従事した。そして...
segunda-feira, 09 de dezembro de 2013
 返幅を飾らず、飄々乎として、しかも親しみ深い渡邊孝氏の名を、忘れ得ないであろう。福島県相馬郡中村町の産、明治40年(1907)3月東京外国語学校スペイン語科を卒業、大正2年(1913)東洋移民会社に入り、同年ミナス・ジェライス州サン・ジョン・デル・レイ金鉱行き単独移民18名...
segunda-feira, 18 de novembro de 2013
 アリアンサ移住地を発祥させた、信濃海外協会は、大正10年(1921)、永田稠、輪湖俊午郎、宮下琢磨三氏企画によって、小川平吉(国務院総裁)今井五介(貴族院議員)岡田忠彦(県知事)笠原忠造(県会議長)佐藤寅太郎(信濃教育会長)の五氏が、発起人となって大正11年(1922)1月...
quinta-feira, 26 de setembro de 2013
 移民初期の人々は、サンパウロ市コンデ・デ・サルゼーダス街49番地を御存知であろう。即ち邦人最古の宿屋で、上地彌蔵夫妻の経営であった。 

 上地氏は、明治6年(1873)2月8日、父喜八の八男、和歌山県西牟婁郡潮岬村に生れた。明治25(1892)年豪州にわたり、真珠採取業や漁...
quinta-feira, 27 de junho de 2013
 ブラジル移民の道を開いたのは、水野龍氏であるが、移民のあと始末に生涯の精根を尽したのは上塚周平氏である。

 上塚周平氏は、明治9年(1876)7月19日、熊本県下益城郡杉上村に生れた。明治40年(1907)東京帝国大学法科を卒え、翌41年(1908)4月、ブラジル移民の開祖水野...
quarta-feira, 22 de maio de 2013
 駐伯第四代公使内田定槌氏の時に、わが第一回移民が、ブラジルに入植したのであった。内田氏は慶應元年(1865)1月17日、福岡県田川郡採銅所村で生れた。

 笈(きゅう)を負って東京に上り、明治22年(1889)7月、東京帝大法学部を卒業し、直ちに外務省試補となった。内田氏が弁...
terça-feira, 26 de março de 2013
 竹澤太一氏は、明治4年(1871)3月7日、千葉県安房郡長狭町(旧大山村)で、生れた。東京の学習院で小学の過程を終え、英学塾に入って英語を勉学し、その後渡米して、アメリカの大学に学んだ。米国留学を終えてからメキシコに赴き、メキシコ国内を巡遊すること1年。帰朝後、更に東京...
sexta-feira, 08 de fevereiro de 2013
 外交畑の人で、退官後ブラジルで自ら農業の経営にあたった者に、古谷重綱、宮腰千葉太、多羅間鉄輔の諸氏があるが、その中で、多羅間鉄輔氏は、旧くから最もブラジルと関係の深い人であった。山口高等学校を卒えて、東京正則国民英学会を卒え、明治36年(1903)11月、海外留学生とし...
quinta-feira, 10 de janeiro de 2013
 龍江義信氏は、大正6年(1917)12月1日、海外興業株式会社が創立されると、常勤監査役に推され、翌7年(1918)2月8日専務取締役となって、昭和12年(1937)5月、海興を辞任するまで、実に20年間に亘って、海興の事業に専念してその発展に貢献した人である。その間ブラジルに足...
segunda-feira, 10 de dezembro de 2012
 明治41年(1908)4月28日、折からの春雨をついて、ブラジル向け第1回の移民船笠戸丸は、雄図に燃える781名の移民を乗せて神戸港を出帆した。多くの見送り人の中に交って、その壮観に眼をみはり、長く岸壁に佇立していた紳士があった。後年、民族の発展は海外移住をおいてはない...
sexta-feira, 09 de novembro de 2012
 ブラジルにおける日本公使館が、大使館に昇格したのは、大正12年(1923)5月1日のことで、オランダ駐剳公使であった田付七太氏が、5月1日附で初代ブラジル大使に任命された。

 田付大使は6月30日に東京を出発して、8月16日にリオに着任したが、その後僅かに2週間で、母...
segunda-feira, 08 de outubro de 2012
 ブラジルの陸上競技界に貢献した、安養寺顕三氏の功績を没却してはならぬと同様に、水上競技界に尽した、斎藤巍洋氏もまたコロニアスポーツ史上永久に残る功績を示している。

 斎藤氏は千葉県の出身で、明治36年(1903)9月14日生れである。水泳で有名な岸和田中学校から立教大...
quinta-feira, 13 de setembro de 2012
 なんぢの目の前には千年もすでにすぐる昨日の如くまた夜の間のひとときにおなじ、なんぢこれらを大水のごとく流れ去らしめ給う、かれ等は一夜の寝の如く朝に生え出でる青草の如し、朝に生え出でてさかえ夕には刈られて枯るなり         詩篇九十篇

 崎山比佐衛氏は、明治...