有吉 明
有吉 明(ありよし・あきら)
quinta-feira, 06 de agosto de 2009

 有吉明氏は、大正15年(1926)11月5日、駐剳ブラジル大使に任じられ昭和2年(1927)1月25日、リオ・デ・ジャネイロ市に着任した。ブラジル在勤は満3年余りであった。

 明治9年(1876)4月15日、東京で生れたが、郷里は京都府与謝郡宮津町となっている。

 明治31年(1898)7月、東京高等商業学校専攻科を卒業し、同年10月、外交官及び領事試験に合格、直ちに領事官補として外務省にはいり、まず勤務したのが漢口であった。

 大正9年(1920)4月、特命全権公使に任じられ、スイス国に駐剳するまで、その大半を支那でおくり、ブラジル大使を免じられてからは昭和7年(1932)7月、中華民国駐剳を命じられ、満洲事変以来の多難な対支外交に当ってその手腕を高く買われた。

 有吉大使の任期中のブラジルは、前任田付時代の波瀾重畳の、暴風雨時代がようやく過ぎ去って、後任林大使が不運にも遭遇した、憲法制定議会の移民制限問題の、最大受難期に入る前の、比較的平穏の時代であった。有吉時代の顕著な事績といえば、田付時代に火をつけられたアマゾン進出への、まとめ役というよりは、その具体化に手をかし実現役を引受けたというのが適当であろう。

 また田付時代には、パラー州との連契に成功したが、アマゾナス州は単に簡単な視察に止り、これと手を握るには至らなかったのを、アマゾナス州とも、手を握るように工作したのが、有吉氏である。

 当時のアマゾナス州知事エフィジェニオ・デ・サレス氏は、ミナス・ジェライス州出身の親日家であった。東隣のパラー州知事の申し出が、日本で取上げられて、福原調査団が現地調査を行うことを知った同知事は、同じく日本人の手による、アマゾナス州の開発を強く希望し、州の財政窮乏の折にもかかわらず、巨額の費用を投じて、田付大使の一行を歓待し、若し日本人側で、アマゾナス州で企業を試みようとするものがあれば、州政府はいかほど広大な土地でも、無償で下付するは勿論、パラー州政府が提供する恩恵に、優るとも劣らない条件を許与するであろうと申し出て、福原調査団が、パラー州に於ける任務が終了したら、アマゾナス州をも一応、調査せしめられたいと懇望した。しかし福原調査団の調査地域を、アマゾナス州まで拡張させることは、時日の関係上実現不可能となってしまったので、サレス知事は、少なからず落胆はしたものの、なおその希望を捨てず、田付大使帰朝(7月末日任地出発)後の10月20日に、わが大使館宛に同知事の任期(1930年12月末)中に、たとえ数名でも日本殖民を、州内に誘入して置きたいからアマゾナス州の調査を目的とする、学術調査団を、1927年(昭2)6月以前に、来州せしめるよう尽力ありたしと、依頼して来た。然るにこの時は、野田一等書記官も賜暇帰朝中で、サレス知事が希望する学術視察団の派遣も、停頓状態に陥っていた。

 有吉氏の着任が近いことを、新聞で知ったアマゾナス州知事は、昭和2年(1927)1月22日、有吉大使の着任3日前に、大使宛に、「その年の6月までに、学術視察団を同州に派遣して貰いたい」と依頼してきた。

 前任地スイスから、1月25日に着任した有吉大使は、折柄帰任した野田書記官の意見をも聞いた上、前任田付大使によって開始された、邦人のアマゾン進出は、益々これを奨励支援することに決定した。よって2月13日、アマゾナス州知事の依頼を、電信でわが政府に取次ぐとともに、サレス知事に対しても電報で着任の挨拶をのべ、わが国とアマゾナス州の良好な関係を一層緊密にすることを希望する旨を力説した。また視察団派遣の件は、日本政府へ伝達しておいたので、回答次第転報すると申送った。これに対し州知事からは、丁重かつ熱心なる返電をよこしたが、その中に「貴国人は当州に於いて、懇切に歓迎され、当州に於ける貴国人の活動は、十分に酬いられるであろう。鶴首待望している学術調査団来着の暁には、州は出来得る限りの援助を供与するであろう」としるしてあった。

 かくの如く、アマゾナス州知事の熱心な勧誘によって、まず成立したのが山西・粟津のコンセッションであった。東京の実業家山西源三郎氏が、南米で何らかの事業を計画しようと、ブラジルを訪れ、関根海軍武官の勧めで、粟津金六氏を東道役(案内役)として、北伯視察の旅に上った。そして、アマゾナス州で知事と相識の間である粟津氏の努力でアマゾナス州々有地百万町歩(町歩=ヘクタール、以下Haと記す)のコンセッションを成立せしめた。ただし、その契約には2年間以内に企業化させねばならぬ規定があった。

 山西氏は、このコンセッションを企業化するため、東京に帰って、資本家や有志の間を説いて廻ったが、所定の期間内には、到底実現の見込みがなかった。幸にして粟津氏と同郷人で、しかも神戸高商の同窓である上塚司氏(当時衆議院議員)が、本件契約の実行に関する一切の権利を粟津、山西両氏から委託されることになり、上塚氏の尽力で外務省の補助を得て、昭和3年(1928)8月、調査隊を派遣する運びとなった。この第一次調査隊は、同年12月現地に到着し、直ちに留保地帯を調査し第一地帯中、マウエス、ウラリア、アバカシー、カヌマンの4河に囲まれた地域、30万町歩(Ha)を選定し、残り70万町歩(Ha)の画定は、これを後日に譲ることとし、なおこれを契機として、原契約の期限を取敢えず2年間延長するため、粟津氏は州政府に出願して契約を締結した。

 アマゾン邦人発展の端緒を開き、そのバック・アップとなったのは田付、有吉両大使だが、ロスアンゼルス領事大橋忠一氏も、北米よりの帰朝の途中アマゾン地域まで足をのばし、その重要性を認識して帰朝し、通商局第三課長に在任中は、常に積極的にパラー、アマゾナス2州に於ける邦人企業の開始ならびに助成に尽力した。

 アマゾニアに於ける邦人の発展上、有吉明、大橋忠一両氏の名は、田付七太氏と相並んで後世に伝えねばならぬ。

 有吉氏は昭和12年(1937)6月25日、東京に於て逝去した。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros