安養寺顕三
安養寺顕三(あんようじ・けんぞう)
quinta-feira, 08 de outubro de 2009

 在伯邦人の陸上競技界の発展に、大きな貢献をした安養寺顕三氏は京都市下京区新町通り正面上るの出身。暖簾の古い悉皆屋の二男に生れた安養寺氏は、市立実習商業学校を卒業後、京都武徳会で柔道や水泳等の練習に励み、特に水泳は極東オリンピック大会の予選に出場する位の腕前であった。

 家業を継ぐ責任のなかった安養寺氏は、昭和2年(1927)3月、自由渡航者としてブラジルに渡った。最初はサンパウロ周辺の耕地を転々として働いたが、その後はサンパウロの常盤ホテルに居を定め、サンパウロのミカドクラブに籍を置き、自費で野球道具を日本から取りよせた。

 大阪商船の移民船がサントスに入港すると安養寺氏はミカド倶楽部の連中をひきつれて、移民船の乗組員チームと、よく親睦試合をした。頭のよく働く安養寺氏は、こうした際に、船が日本から運んで来たユニフォームや道具を、倶楽部員と共に船で着込み、道具をかついで堂々上陸したので、野球用品では通関税を払うことがなかった。

 今日、ブラジルの野球は盛大を極め、クラブ数は2千と称され、年々全伯大会が催されている。各地方にも立派な野球場が出来ており殊に本年(1958)は移民五十年際のお祝いに、日本から早稲田大学チームを招聘している。野球がかくも盛んになったのについては、その昔、安養寺氏が自腹をきって野球のグラブやミットやユニフォームを日本から取りよせて奨励したことが大きな素因をなしているのである。

 安養寺氏は野球を奨励するかたわら、陸上競技や水上にも力を注いだ。当時邦人間の陸上競技に対する関心や理解は、全く幼稚極るものであった。この状態を情なく思った安養寺氏は日本から有名選手を招聘して、陸上競技の発展を計ろうと考え、ブラジル、アルゼンチン両国の陸上競技連盟とも折衝して、その了解を得、昭和7年(1932)のオリンピック大会には、伯国選手を同伴して、ロスアンゼルスに赴いた。この大会で、当時の日本選手連とも、顔なじみになったので、大会終了後、日本に帰って、三段跳で優勝した南部忠平氏を筆頭に5、6名の日本選手団を、ブラジルに招聘すべく非常に努力をした。日本の陸連も安養寺氏の努力を買い、南部氏は都合で一行に加わることが出来なかったが、陸上競技選手の朝隈、大島、藤枝、住吉、大江、福井の諸氏が、昭和8年(1933)に渡伯することとなった。長い間の工作と苦労が酬いられて、大喜びの安養寺氏も、マネージャーとして同行するつもりで、横浜まで出掛けたところ、陸連で選手以外の人には、旅費が出せないと言い出し、安養寺氏はがっかりしてしまった。ブラジルに立った一行を見送り、わが事既に成れりと、愚痴一ついわなかった安養寺氏の態度は、スポーツマンシップに徹した、立派なものだったと、当時のことをよく知っている、安養寺氏の親友の泉渙氏(大阪商船)が述懐していた。
 
 日本から有名選手が6名も渡伯したことによって、コロニアの陸上競技界は、大きな刺戟を受け、目覚しい進歩の途を辿ることとなった。在伯邦人のスポーツ熱は、その生活の向上と共に益々昂まり、昭和14年(1939)には、いよいよ南部忠平氏がコーチとしてブラジルに招かれることになった。もともと安養寺氏は、ロサンゼルスの五輪大会で大日章旗をメインマストに掲揚した、三段跳の優勝者、南部忠平氏の渡伯を心から希っていたので、この時も専ら現地との斡旋につとめ、その実現に懸命の努力をしたが、その時も費用の都合で、安養寺氏自身は南部氏と同行することが出来なかった。この時の事情を南部忠平氏(毎日新聞大阪本社運動部長)は「安養寺君は、昭和10年(1935)頃から最初の目的であった私の渡伯を熱心にすすめてくれました。そして在伯邦人の陸連から私が招聘され、コーチとして昭和14年(1939)に渡伯が決定した時も、費用の関係で同君は日本に残るという、まことに気の毒な結果と成ってしまったのです。蔭の人として非常に活躍してくれた安養寺君は、日伯両国間のスポーツ親善に尽した、最大の功績者であります」とのべている。

 南部氏は昭和14年(1939)に渡伯し、翌年まで滞在して、スポーツのコーチに専念し、これによってコロニアの陸上競技は、著しい躍進振りを示したが、邦人ばかりでなく、ブラジル人のためにも、犬馬の労を執ったので、スポーツによる日伯親善の実が大いにあがり、各方面ですこぶる好評を博した。

 安養寺氏は、昭和14年(1938)5月22日、忽然として、36才の若さでこの世を去った。スポーツで鍛えた健康体で病気というものを知らなかった氏は、下腹部の病むのを、単なる腹痛と軽んじて、医者にもみせなかったが、いずくんぞ知らん盲腸炎が手遅れとなって他界したのである。

 安養寺氏の訃報、一度ブラジルに伝わるや、コロニアのスポーツ界は、愕然としてその死を惜しんだ。昭和15年(1940)春、南部忠平氏の帰国に際し、在伯の知友が相諮って選んだ、40貫(150キロ)程の墓石を南部氏に託した。

 その表には、「人間安養寺顕三の墓」の九字が刻まれてあった。

 人間安養寺氏は、斗酒尚辞せぬ酒豪で、酔漸く至れば、眼を細うして十八番のオケサ節を唄った。

 移民五十年の祭典が、盛大に催されるに際し、スポーツ界に尽した氏の功績が今更の如く回顧され、人間安養寺が大きくクローズアップされている。

 遥々ブラジルから送られた、友情の墓石の下に、静かにねむる安養寺顕三氏の霊よ安かれ。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros