平野運平
平野運平(ひらの・うんぺい)
quinta-feira, 11 de março de 2010

 静岡県士族榛葉健吉氏の二男、東京外国語学校スペイン語科を卒業、移民通訳として渡伯した。通訳五人男(平野運平、加藤順之助、仁平高、大野基尚、嶺昌)の一人である。

 墓碑の「平野運平之墓」の六字は、堀口九萬一公使の筆に成り、裏面に「大正八年二月六日死亡行年三十四才」と刻まれている。後年、開拓犠牲者のために、平野植民地の一角に鎮魂碑が建てられた。その碑文は左の通りである。

「平野植民地ハ伯国ニ於ケル我植民地の嚆矢ニシテ、静岡県人平野運平君ヲ以テ創始者トス。
君夙ニ海外万里開拓ノ志ヲ懐キ、東京外国語学校ニ学ビ、明治四十一年第一回移民通訳トシテ、グアタパラ耕地ニ入リ、勤勉努力躍進副支配人トナル。君慨然想エラク、邦人将来ノ発展ハ須ラク土地ヲ求メ独立スルニ在リト、之ヲ聖州総領事松村貞雄君ニ諮ル。同君大ニ之ニ賛同シ、後援ヲ約ス。君茲ニ於テ万難ヲ排シテ事ニ当リ、大正四年土地ヲ選定シ、敢然職ヲ辞シ、八月三日黄昏壮士七名ト共ニ密林ヲ排シテ現場ニ入ル。即チ現植民地ナリ。初年入植者八十二家族、櫛風沐雨同心協力、開拓ニ従フ。然レドモ不幸マラリヤノ厄アリ、医薬続カズ死者六十余名、惨状言語ニ絶シ、資金又窮乏ス。君救ヲ松村君ニ求ム。君嚢底ヲ払ッテ匡救シ、彌縫一時ヲ凌グ。更ニ旱魃蝗群ノ災害アリテ、平野君苦心惨憺、漸ク難関を突破シ得タルモ健康為メニ損ス。会々大正八年、グリッペノ流行ニ遭ヒ、二月遂ニ斃ル。松村君モ帰朝中卒然トシテ逝キ、植民者、為メニ其ノ柱ト恩人トヲ失ウ。其ノ悲嘆知ルベキナリ。爾来同人互ニ相励シ能ク其ノ遺志ヲ継ギ、据拮経営、今ヤ其基礎漸ク定ラントス。而シテ植民地の建設比隣ニ行ハレ、故人の理想茲ニ漸ク達成ヲ見ルニ至ラントス。植民地内、平野、松村両君ノ徳ヲ慕ウ者、一碑ヲ建テテ其ノ偉業ヲ伝エ、併セテ犠牲者ノ英霊ヲ弔ハントシ、余ニ嘱スルニ碑文ヲ以テス。松村君ハ余ノ旧友ナリ。生前其ノ知己に浴ス。敢テ拒ム可キニアラズ。即チ不文ヲ顧ミズ事暦ノ一端ヲ序シ、是等諸氏ノ誠意ニ酬ユルモノナリ。
昭和二年十二月、特命全権大使正四位勲一等、有吉 明」

 ブラジルに於ける邦人植民地のうち、当初より自作農として直接渡伯させたものは、青柳郁太郎氏のイグアペ植民地を以て嚆矢となすが、平野運平氏はこれに反し、一旦出稼移民としてサンパウロ州内に散在した邦人を初めて植民状態に移した所に意義と功績を有し、しかも後年族生した土地売り商売の所謂植民地とは、その目的に於いて自ら異るものがある。すなわち平野氏は金儲けに植民地を作ったのではなく、その身を犠牲として、一つに植民の幸福を確立せんと試みたのである。この拓人としての面目と彼の苦渋愛情こそ、我が移民史に異彩を放つ貴い遺産である。さればこそ、その後先駆の偉業に殉ずる幾多の移住者が現われて、この地を護り抜いた。例えば山下永一、植田勘三郎、佐藤勘七諸氏の如きがそれらである。

 地上の珈琲は消滅し、平野植民地もまた時の流れと共に転変するかも知れない。しかし歴史に蒔かれた魂の種子は、永遠に亡びないであろう。われわれは、かくあるを信じればこそ、人生の秩序と明日の生命に希望を持つことが出来る。五十年を顧みる時、マラリアも蝗群も、旱魃も降霜も、さては貧も富も問題ではなく、いわゆるコロニアの成敗は、真実一路の人の問題に要約されるであろう。

 明治41年(1908)6月18日、日本移民船笠戸丸がサントス埠頭に錨をおろした。6月28日、鹿児島県人18家族、高知県人2家族、新潟県人3家族、合計23家族88名を引率して、平野氏はパウリスタ線グヮタパラ耕地に入った。

 笠戸丸着伯に先だち、明治41年(1908)シベリア経由で渡伯、5月中旬サントス港に着いていた氏は、当時若冠22才。

 その統制力と経営の才を、ジョゼー・サルトリオ耕主に認められて、同耕地の副支配人に重用され、笠戸丸移民の配耕先6ヶ耕地中、何一つ紛争事件を起さなかったのは、このグヮタパラ耕地だけであった。勿論、耕地監督として、配耕された移民達の利益に対して留意し、赤心をその腹中におくという平野氏のやり方が、移民の信頼を得たという点も、その一因をなしたのであった。

 1914年(大3)、ノロエステ線プレシデンテ・ペンナ駅(現カフエランジャ駅)より13キロ、ドラード河対岸地に、1620アルケール(約4千Ha)の原始林購入となり、グヮタパラ耕地在住者中より選んだ20余名の先発隊が1915年(大4)8月3日に入植、同年12月末迄に82家族が踵を接して入植した。

 翌年1月上旬よりマラリアが発生し、70名近く犠牲者を出すという邦人の伯国植民史中、最も悲惨な一頁をしるすに至ったが、その間氏は、病床の植民者を一軒々々見舞ってこれを慰撫し、医薬の購入に最善を尽した。

 1917年(大6)の蝗害、1918年(大7)の旱魃と、災厄しきりに襲ってきて、平野植民地の草創時代は、まことに血と涙に彩られたが、植民者は平野氏を中心に唇をかみつゝ開拓事業に献身し、大平野植民地を完成、更に隣接地3千アルケール(約7千5百Ha)を増設して第二平野植民地の開拓を完了するなど、氏の遺志は同志に継承された。

 平野氏逝いて40年、氏に対する敬愛の情は、今日も尚依然たるものあり、2月6日のその命日には、植民地在住者の老幼男女が墓前に集り、万朶の如き蝋燭は墓碑を繞って終日絶えず、平野さんはこれがお好きじゃったと、一人々々が火酒の瓶を傾けて墓石に注ぎ、謝恩、慰霊の手向けをするという美しい習慣を続けている。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros