第五回「コロニア今昔物語」:『力行会の播いた種』開催報告
quinta-feira, 19 de agosto de 2010

去る8月12日、文協ビル1階大会議室において「コロニア今昔物語」第五回が開催されました。今回は、雑誌「のうそん」の主宰者であり、日本力行会第二代会長永田稠(しげし)氏のご子息、永田久氏をお招きし、「力行会の播いた種」というテーマでお話いただきました。

力行会は、キリスト教精神に基づいた独自の思想により、多くの若者を海外へ移民として送り出したことで知られ、ブラジルでは、アリアンサ移住地の建設が特に有名です。

アリアンサ移住地は、様々な面で他の移住地と異なっていたという点がしばしば取り上げられますが、一つには有識有産階級の人々が多かったと永田氏は説明されます。当時、小学校教員の月給が10円ほどと言われた時代に、移民を希望する人に対して2500円を用意できること、という条件があったそうです。また、単に財産があるということに留まらず、高い学歴や様々な経歴をもった人たちが多かったようです。入植し、原生林を伐り倒した早々に音楽会を開いた沢田さん、また同じくテニスコートを作った竹内さんを始め、チエテの橋の設計布設を行った木村貫一郎工学士、東京工業大学を出、旭化成とアメリカで働かれた硝子の専門家、新渡戸稲造や与謝野鉄幹の親戚の方々、日本で伯爵だった渡辺氏など、永田氏も「どうやってそんな人たちを親父(稠氏)は説得したんだろう」といぶかるような、錚々たる面々がアリアンサにはおられたのです。

そんな農業経験を持たない移民たちは「銀ブラ移民」などと揶揄され、実際久氏自身、当時を振り返り、やはり農業には苦労していた様子を横目に見ておられたと語られました。しかし、力行会がその一つとしていた「永住移民」という考えは、確かに彼らのうちに根付いていたようで、80年以上たった今、その息子たちが他に引けを取らない農業を営んでいる、とおっしゃいます。また、その内容も伐採まで25年もかかるチーク材の植林や成熟するまでに10年かかるゴム樹など、「永住」という考えの名残である、と言えます。




そして、ブラジルの日系コロニア社会に多くの優秀な人材を輩出してきたこともさりながら、力行会が果たした一番大きな貢献は、それまでの移民会社による利益を重視した移民から、公共団体による移民への転換を実現した、ということだったと説明されました。永田稠氏の海外協会を作る動きが、海外移住組合法の成立、またブラジル拓殖組合(通称:ブラ拓)の発足につながり、その後の移民の基盤を作ったと言っても過言ではなく、もっとその点が、移民の歴史の中で取り上げられるべきだ、と強調されました。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros