北島 研三
北島 研三(きたじま・けんぞう)
quinta-feira, 02 de dezembro de 2010

 北島研三氏の略歴は、「ブラジルに於る日本人発展史」に左記の如く掲載されている。

  「明治3年(1870)2月16日、福井県金津町新町に生れた。同9年(1876)父母と共に京都に転住し、同14年(1881)更に東京に移り英語及び数学を専修し、同17年(1884)より23年(1890)まで、明治学院の前身築地英和学校に学んだ。23年(1890)東京歩兵第一連隊に入営し、26年(1893)除隊となり、三等看護長を拝命した。27年(1894)1月愛知医学専門学校に入学、同年9月、日清の役に際し応召、翌28年(1895)6月凱旋し、前記愛知医学校に復学した。31年(1898)卒業後、日本赤十字病院に入り、33年(1900)北清事変の際には、赤十字病院船に乗組み、同年11月復院した。同37年(1904)日露戦争に際しては、病院船弘済丸に乗組むこと2年、38年(1905)11月凱旋復職した。日清戦役、北清事変および日露戦役を通じる功に依り勲五等に叙せられ旭日章を賜った。明治41年(1908)日本赤十字社病院を辞し、日本郵船会社船医として、久邇宮殿下に奉侍して欧州に航したが、同年郵船会社を辞し、爾後自宅に於て開業す。大正2年(1913)4月伯剌西爾拓植会社に入社し、同年5月欧州経由ブラジルに赴任し、爾来10年、桂及びレジストロ両植民地に於いて診療に従事した。大正12年(1923)4月ジュキア線一帯にマラリア流行せりと聞くや、植民地の医務を助手高野留七に託して同地に赴き、同胞の救援に尽瘁したが、不幸悪性マラリアを得て帰宅し、苦しむこと数ヶ月、遂に同年9月17日レジストロの自宅に於て永眠した。享年54」

 北島医師の輪郭がよく描出されている、次の一文により、更にその人格の一端を窺うことが出来るであろう。北島氏が永眠の前夜、子女を枕頭に招いて語った所を、長男弘穀氏が手記したものである。
 「人生とは死するまでを云う。言葉をかえて言えば、死生の間の直線である。幾何学上の直線は、二点間の最短距離で、線のうちで最も簡単なるものである。しかし、人生は幾何学上の直線の如く簡単なものとは思えない。何故ならば、主キリストは千何百年前に生れて、しかも彼の人生は僅に33歳であった。しかし、その教えは滅びず彌ゝ(いよいよ)盛んである。この事より見れば、人生は生と死の二点に於ける直線に止らずして、死後の彼方に、尚無限に延長され続いている。自分の望む所も亦それである。

 人間と云うものは、生れたならば死は定まりしもの、避くべからざるものである。自分も人間と生れて来た以上、既に死を覚悟していた。しかし、自分が医師の立場となってから、赤十字病院に十年、日露戦役の海上勤務として、開業医として多くの人間の最後に邁遇した。眠るが如く死ぬ者、苦しみ悶える者などの臨終を思う時、死に対する考えが普通人とは相違を来たさざるを得なかった。自分の父は、六十六才で亡くなったが、羨ましいまで平和な死を遂げた。自分が今死ねば、年齢に於て父に敗けたことになるが、せめて願わくは父の如くありたい、とは医師たる自分の希望である。自分は今病気となり、病気は安らかな最後を来たさざるべしと考えている。徒労なる苦しみの益々加わらんより、寧ろ自殺を可とすと考えるに至った。

 有島(武郎)が自殺した。ここでも松井松作が自殺した。これらの出来事は、死期の近づいた自分に、強い刺激を与え、自分の心理状態に大変化を来たした。そして、自殺は正当であると認め、自分自身も自殺を覚悟したのであるが、是を実行し得なかった。その理由は、いつに五十年来キリスト教の信仰生活に依って得た、御旨の閃きであった。

 ゲッセマネの園に「我父よ、若し叶わばこの杯を我よりはなち給え、されど我心のままをなさんとするに非ず、聖旨に任せ給え」とキリストが祈った主の教は、実に自分の自殺を思い止まらしめ、苦しい杯を受くる事を覚悟せしめたのであった。自分は最後まで、父なる神の御心のままになろう。

 最近読んだ “The Open Spaces” の中に「岩の裂け目に落ちた一粒の種子が、芽を出し生長した」と云う句があった。九州の一角に理想の村を建設すると云う武者小路実篤もこう云う事をいっていた。

 「自分は自然を愛する。そして、本当に花が好きだ。自分の墓場は石碑も何もいらない。年中花をもって覆って欲しい。この世に花の絶えない間は、研三は生きているのだ。紫陽花は曲者の花だ。然し面白い。今度四、五十本持って来て、永島君に渡しておいたから、うまく育てて貰いたい。自分は生れてから金に縁のない男だ。本を読んで一生を暮らした。斯くして得たものは「人間は萬物の霊長なり」と云うことを否定したことであった。」

 北島研三氏は、一生を医業に捧げたが、一匙の投薬、かりそめのひとメスに至るまで、実に信仰より滲み出でた愛のあらわれであった。余談ではあるが、かつて土地問題で、イグアペの会社と、土着の某有力ブラジル人との間に係争が起った。会社側は如何にしても、この土地を手に入れねばならぬ事情にあったが、訴訟は不利であった。そのブラジル人の曰く「俺は会社側には、意地でも売らぬ。しかしドットル北島になら無償でも差し上げよう。北島はリベイラ沿岸の神様だからな」と。彼は会社医ではあったが、その徳と熱情とはイグアペ内に住む凡ての人々の親しみ仰がれる所であった。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros