人文研ライブラリー:日本移民の社会史的研究(1)
アンドウ・ゼンパチ
segunda-feira, 23 de novembro de 2015

前回までの『近代移民の社会的性格』に引き続き、アンドウ氏の『日本移民の社会史的研究』を掲載いたします。なお、表記は原則そのままとし、当時の著者の考えを再掲したものであるという点、ご了承ください。

日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ

1.序説

 日本移民が1908年に初めてBrasilの土を踏んでから、50周年を迎えた1958年6月までに入国した数は199.761、その子孫を含めた日系人社会の総人口は430.135に達している。(1)そして、わずか半世紀の間に、特に農業面においてなしとげた発展は、社会的にも経済的にも目ざましいものがある。
(註1)日本移民ブラジル入国50周年記念事業として、日系人社会が行なった実態調査による。ブラジル日系人実態調査委員会編集“ブラジルの日本移民”
なお、同調査委員会による1968年の日系人口推定数は584.000であるが、その説明をみると、調査時点(1958年6月18日)より20年後の人口を、前項(同書41~42頁)で得られた人口動態率をもとにして次の仮定のもとに推計したものである。
(a)1958年における年令別生存率および15~49才女子の出産率は変らない。
(b)日本移民の流入は毎年3.000人で男女年令別構成は1958~62年のそれと同一である。
(c)さらに計算の都合上、移民は毎10年のはじめに一時に流入するものとする。
 こうしたかなり楽観的な仮定のもとに推計された1968年の総人口は上記のように584.000人なのである。巷間伝えられる60万説はあまりに誇張されたものだといえる。

 しかし、この原因を日本移民の大部分が農業者であったという表面的な理由だけで説明することは、社会史的見地からは決して正しくない。それには、社会的および経済的にもっと本質的な種々の原因を探求する必要がある。すなわち、日本移民社会の繁栄の原因は、日本移民がイタリアその他諸外国の移民とともに活動した基盤であるSão Paulo州との、さらに視野をひろげれば、Brasil国との社会経済的諸関連の中に求められねばならない。
 このような史観に立って、まず初めに、日本移民が流入し始めた時期を歴史的に見ると、Brasilが奴隷制に基く社会経済的諸関係から徐々に脱却して、近代社会へ移行しようとしていた過渡的な時代であったということが注目されねばならない。
 しかし、Brasilでは、単に奴隷を解放しただけでは資本主義に基く近代社会への転換は容易に行われなかった。それが行われるためには、さらに強力な産業資本の出現と、工業の発展に必要な技術と労働力の供給、および工業製品に対する盛んな購買力をもつ勤労階級の発生が必要であったのだが、これらの条件がSão Paulo州においては、奴隷解放後における大量のヨーロッパ移民の流入と、1896年から10年間にわたって狂暴に吹きまくったコーヒーの生産過剰による大恐慌が契機となってととのうようになった。
 この恐慌はブラジルの近代化の進行を停滞させていた障害の一部を崩し、とくにSão Paulo州において、近代化への道を大きく開くためにきわめて重要な役割を果したといえる。
 黒人奴隷は解放されて自由な庶民となったが、生れてからの生活環境上奴隷なるがゆえに身についた不具的な性格のために近代社会の勤労階級を形成する能力に欠けていた。それゆえ、“彼らは解放されると、農村をとびだして都会―主として、Rio de Janeiro市に集まったが、そこで仕事を求めようとはしなかった。労働は彼らにとって憎悪すべきものであったのだ。たいがいのものが浮浪化し、無頼の徒となり、泥棒や乞食になった”(2)それゆえ“解放された黒人が新しい社会の秩序の中にとけこむには時日を要した。”(3)
(註2)Leoncio Basbaum, História Sincera do Brasil, vol. II, pàg. 203
(3)Idem, pàg. 204.

 このような黒人の欠点を補って、奴隷制が崩れた後、資本制的社会への進展を可能にし、かつ促進する大きな役割を果したのが、勤労意識をもった移民であった。
 São Paulo州に誘入された移民は大部分がコーヒー農場、fazendaで半ば農奴にひとしい契約年期農民、いわゆるコローノ、colonoとして働いたが、彼らは農場で契約期間を終えても、自営農として独立することは、ひじょうに困難であった。なぜなら、自営農業を行うためには、小土地を所有することが絶対的な条件であるが、ブラジルでは土地所有の伝統的型態である大私有地、latifúndioが圧倒的に支配しており、自営農的小土地所有者の発生を不可能にしていた。それがSão Paulo州では、コーヒー恐慌を契機として、ようやく、シチアンテ、sitianteとよばれる自営の小土地所有者になれる条件が与えられるようになった。その結果、移民に初めて、経済的、社会的上昇の道が開けたのであるが、これが、移民の勤労意欲をますます盛んにしたことはいうまでもなかった。
 この第2篇の“日本移民の社会史的研究”では、以上にあげたような、São Paulo州の近代化を促した諸条件のもとで、日本移民の社会を発展させた社会・経済的な諸原因を究明することを目的としている。
 それゆえ、日本移民社会のために、種々貢献した人々についても、特殊な場合にだけ人名をあげてあるにすぎない。また、日系社会の地方的な集団地については、巨視的にみて、社会・経済的な原因が、だいたい同じだと考えられる場合は、特殊な条件が存在しないかぎり、いちいち述べなかった。
 また、日本移民の生活様式や同化問題、思想問題などについては、本書の姉妹篇として、半田知雄氏が執筆する“日本移民の生活文化史”で詳述されることになっているので、論述上、差しつかえないかぎり省いてある。さらに、農業面における日本移民の貢献などについては、半田氏につづいて、斉藤広志教授が“日本移民がブラジル南部の農業開発に及ぼした影響”についての研究を企画されているので、その方にゆずることにした。

第二回へ >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros