ブラジルにおける日系農業史研究:「ブラジルのジュート栽培―日本人のはたした役割―」(3)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
quarta-feira, 10 de agosto de 2016

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3 ジュート産業の盛衰

3-1 強制接収された Ciasa
 ブラジルにおける日本人移民史のなかで、事業の挫折や計画が失敗に終わったケースはいくつもあった。原因について深く分析しないまま、たいがいは、「戦争のため」というひとことでかたづけようとする。はたして、そういえるであろうか。企業関係の場合、ブラジル政府による「資産凍結」[注 27]をあげることが多い。だが、凍結されても営業は継続できたし、事実、存続した事業体はいくつもある。
 Ciasa の場合、預託金を国立ブラジル銀行に積まなかった結果、1942 年 9 月 27 日、違反企業として強制接収された。預託義務を履行しなかったのは、当時の役員が判断したこと。同社は、1941 年 11 月 10 日の臨時株主総会で役員を改選し、すべて非日系人とした[注 28]。役員を「ブラジル国籍所持者」に限定したのは、1942 年 2 月であるから、枢軸国資本によるブラジル法人のなかで、Ciasa の対処はかなり早かったといえる。
 しかし、新任役員が適任者だったかどうかは疑問。アレシャンドレ・カルヴァーリョ・レアル社長は政治家である。ほとんどリオ・デ・ジャネイロ市に滞在し、パリンチンスには 12 月にもどっただけ。ヴィヴァルド・パルマ・リマ専務取締役は、いちおう常勤ということだったが、太平洋戦争勃発後は、マナウス(自宅)との間をひんぱんに往復。1942 年 3 月以降はマナウス滞在日数が長くなる。5 月に入ると、そのままマナウスにとどまりヴィラ・アマゾニアへはもどらなかった。まじめに常勤したのは、エリアス・カルダス・ザグリー取締役(財務担当)のみ。ヴィラ・アマゾニア在住者であるから、ほかへいきようもない。1942 年 6 月初めころまで常勤したが、会社の支払不能が確実になると業務を放棄。娘婿である中井憲明(第 4 回実業練習生)とともにジュート栽培に転向する。
 ザグリー取締役のヴィラ・アマゾニア退去により、ブラジル国籍をもった残余社員もすべて退職。日本人はその前、2 月から 4 月にかけて大半が転出していた。会社の強制接収と「日本人拘束」を懸念した辻小太郎が、社員にヴィラ・アマゾニアから離れるよう勧めたからである。日本人社員は、自分でジュート栽培をはじめるか、あるいは知人(ジュート栽培者)を頼って転出した。こうして、Ciasa は営業を停止。会社施設は放棄された形になった。
 預託金の納付期限は同年 7 月 31 日。納付しなければ強制接収となる。9 月初め、35 社のリストが発表され、それぞれ接収手続きにはいった。1942 年 9 月 27 日午前、マナウスから水上機で飛来した陸軍歩兵隊がヴィラ・アマゾニアへ上陸。人数は不明。1 個中隊(当時の兵数は 100 人~ 120 人)とする説もあるがもっと少ない小隊規模( 20 名内外)ではなかろうか。Ciasa の施設を捜索したあと、すべてを封印し警戒態勢をとる。
 このとき、「最後まで会社資産を守る」と称して残留した社員 8 名が逮捕された。日曜日でもあり、ヴィラ・アマゾニアへ遊びにきていたジュート栽培者(原莊太呂、尾山多門ら数名)もいたが、かんたんな尋問をうけただけでおかまいなし。逮捕されたのは、九十九利雄(副支配人)、三宅義郎(経理部長)、越知栄(マナウス出張所長)、岸田好明(レシフェ出張所長)、安藤美代次郎(農事部長)、高村正寿(ジュート部長、1941 年 11 月末の人事異動で部長代理から昇格)、畠中実(マナウス出張所ジュート係)、小田具紀(ジュート部格付係)。パリンチンス市街地の警察署に 1 か月あまり拘置されたあと、スパイ容疑でトメ・アスー植民地( 9 月までは南米拓殖株式会社のアカラ植民地)へ送られた。家族ともども終戦まで軟禁される。
[注 27] (18 p.) ブラジル在住日本人が「資産凍結」というとき、根拠となるのは、1942 年 3 月 11 日付大統領令第 4166 号 (Decreto-Lei Nº 4166) とされる。枢軸国(ドイツ、日本、イタリアに限定)資本の国内法人を対象に、強制預託制度をもうけた。凍結されたのは預託金だけであり、全資産を凍結されたわけではない。対象は資本金 2 コントをこえる事業体。資産規模(出資金および銀行預金残高の合計額)におうじて 3 階級に区分し、20 コント以下は 10 % 、20 コントをこえ 100 コントまでは 20 % 、100 コントをこえる場合は 30 % を、国立ブラジル銀行へ預託しなければならない。この時点で Ciasa の出資金は 2,000 コント。とうぜん、第 3 階級にランクされる。日本企業のうち、海外興業株式会社、ブラジル拓植組合、南米拓殖株式会社のように、州政府が派遣した経営監督官の指示により、みずから営業停止したところは、預託義務を履行していない。事業体として存続し、戦後の 1951 年に政府命令で清算にはいった。預託義務を履行せず強制接収されたのは、Ciasa (アマゾナス州パリンチンス市)と日伯拓植株式会社(サン・パウロ市、未登記法人)のみ。1942 年 9 月に接収され、大統領の指名による清算人が清算業務をおこなう。

[注 28] (18 p.) 1941 年 11 月 10 日の臨時株主総会で選出された役員について、正確なところはわからない。現存する Ciasa 内部資料から、つぎのメンバーだったと推測される。
・取締役社長 アレシャンドレ・カルヴァーリョ・レアル (Alexandre Carvalho Leal)
・専務取締役 ヴィヴァルド・パルマ・リマ (Vivaldo Palma Lima)
・財務担当取締役 エリアス・カルダス・ザグリー (Elias Caldas Zagury)
・取締役 ジョゼ・ヌーネス・デ・リマ (José Nunes de Lima)
・取締役 ジョゼ・ディアス・パエス (José Dias Paes)
・監査役 ペルルディーノ・デ・パイヴァ (Perludino de Paiva)
・監査役 ジョゼ・ F ・アラウージョ・リマ (José F. Araújo Lima)
 このうち、専務取締役と財務担当取締役は常勤。ほかは名目だけの役員で、実際の仕事をしていない。監査役はもう 1 名いたはずだが氏名不詳。経営実務は日本人幹部(辻小太郎支配人、九十九利雄副支配人、三宅義郎経理部長)がとりしきった。


3-2 戦時下におけるジュート栽培
 アマゾナス州の日本人農家は、大半がジュート栽培をめざし、1937 年半ばから 1941 年暮れまでの間に、テーラ・フィルメからヴァルゼアへ移転した。最初はヴィラ・アマゾニア付近だけだったが、日米開戦のころは、パラ州との境界線付近からマナカプルーまで、バイショ・アマゾナス (Baixo Amazonas) と呼ばれる区間[注 29]に散在。アマゾン川本流とラーモス水道、ウラリア水道に産地が形成された。1941 年度収穫までは、日本人が生産の主力だった。1942 年度から事情がかわり、非日系人の作付面積は急速に拡大。同年の収穫量は 2,770 トン。その 7 割までが地元民によるものだった。以後、太平洋戦争の影響もあって日本人は萎縮してしまう。
 最初の数年間、ジュートを買いとったのはベレンとマナウスの商人だった。だが、彼らの買付シェアも縮小される。アマゾン地方におけるジュート生産が増大したこと、Ciasa が強制接収したことを知ると、1942 年末、サン・パウロの製麻会社はマナウスおよびベレンへ駐在員を派遣。直接ジュートを買付するため、アヴィアドールむけの融資をはじめる。1943 年 2 月以降、収穫期間中に、マナウス、イタコアチアラ、パリンチンス、サンタレンに買付代理人をおいて買い集める。受領したジュート繊維を、リオ経由でサン・パウロ州内の自社工場へ送付した。
 栽培希望農家は急増したが、ジュート種子を入手できない。Ciasa が閉鎖されると、種子生産能力が低下したからである。この問題があったため、1943 年度のジュート生産量は、目標(ジュート繊維 1 万トン)を下回り、7000 トンにとどまる。
 種子生産だけでなく、ジュート繊維の格付にも問題が生じる。法律により、格付規格が定められた( 1941 年 2 月 7 日付国法第 6825 号)。ジュート繊維の格付審査をおこなうにあたり、ブラジル農務省は産地(生産州)ごとに格付人を任命。人選は州政府にゆだねられ、アマゾナス州の場合、既述のとおりエリアス・カルダス・ザグリーが任命された。だが、実際に機能したのは 1941 年度生産分だけである。1942 年以降、格付の責任体制はくずれ、等級区分がいいかげんで、放任状態となった。厳密な格付審査がおこなわれないまま、マナウスの商社が買付したからである。その結果、品質に問題が生じた。
 ジュート繊維の外観に関する事項(長さ、色調、光沢、感触など)は、見ただけでわかるから等級区分をしやすい。ところが、生産農家は規格どおりの区分をせず、同一梱包のなかに長い繊維と短い繊維をまぜる。色調は、収穫直後に浸漬する水質によって変わる。澄明な水を理想とするが、アマゾン川本流やラーモス水道は濁水であるから、泥の色がつきやすい。浸漬と水洗の方法によって、色調にかなりのムラが生じ等級がかわる。異質の外観を呈する繊維がまじれば、格付審査ですぐにわかることである。だが、当時のジュート栽培農家は、ほとんどが無学文盲、常識をわきまえない地元民だった。理屈よりも目先の損得勘定(重量をごまかすこと)が重要だと考えた。
 もうひとつ重大な問題は、繊維の水分率。水洗したあと乾燥が不十分なら、あとでカビが発生する。水分率が 13 % 以下になるまで風乾すべきだが、出荷をいそぐ(早く換金したい)農家はこの作業を短縮しようとする。同一梱包のなかで、水分率のことなる繊維が混在することになり、等級をおとす。低品質の梱包が多ければ、最終的に製麻工場の損失になる。輸出用コーヒーをいれる麻袋を製造するにあたり、原料不足をきたすからである。
 格付の手抜きにより、もっと深刻な問題も発生した。等級が決まったあと、生産農家への支払は出荷重量におうじて計算される。上記の「水分率が高い」という件は、重量を増大させるための手段でもあった。それだけでなく、バナナの葉を細く切ってジュート繊維にまぜこむ。この混合物を梱包(総重量 60 kg )の内奥にいれておけば、外から見ただけではわからない。
 不正行為であるから取引の対象外となるはずだが、実際には買付商社へ売り渡される。なぜなら、商社が直接生産者から買付することはなく、産地におけるアヴィアドールの手をへるからである。水分率の問題やバナナの葉を混入させる不正を承知しているアヴィアドールは、最初から低い等級を予想し安値で買い取る。商社もまた安値で仕切る。中間商人は、決して損をしない仕組みになっていた。だから、不正があろうとも、取引は成立する。Ciasa 閉鎖後のジュート取引で、こうした問題が数年間にわたりつづいた。あらためて格付規格の遵守が定着するのは、サン・パウロ州の製麻会社による直接買付体制が構築された 1948 年ころからのことだった。
 ジュート繊維の供給不足であるにもかかわらず、産地における低価格取引はしばらくつづいた。だが、1950 年ころには不正問題と種子供給問題も解消。ジュートの国内生産が急増して、インドからの輸入は減少した。1950 年代半ばになると、ジュート繊維は自給のうえ、さらにいくらかは輸出できるまでになり、半世紀にわたるブラジル政府の悲願は実現された。だが、そのころになると、日本人および子弟はジュート産業の主流からとおざかる。100 戸にもみたない日系農家がアマゾン地方に散在し、アヴィアドールとして、あるいはたんなる生産農家として、ジュート栽培に従事。生産の戦力にはならないし、格付や技術指導など重要な仕事を担当したわけでもない。ほとんど忘れられた存在になっていた。
[注 29] (19 p.) バイショ・アマゾナス (Baixo Amazonas) は、アマゾン川下流地帯をいうが明確な定義はない。多くの場合、ネグロ川の河口(現マナウス市)からパラ州との境界線までとする。しかし、20 世紀後半になって、もっと下流のタパジョス河口(パラ州サンタレン市)、あるいはプライーニャ (Praínha) 、ポルト・デ・モス (Porto de Moz) までを「バイショ・アマゾナス」とするケースもでてきた。本レポートでは、1930 年代におけるジュート産業の勃興をとりあげることから、当時のアマゾナス州における一般的使用法を適用し、「マナウスから下流、パラ州境までのアマゾン川本流沿岸地帯(付近の水道をふくむ)」とする。

3-3 サンタレン製麻会社の設立経緯
 ブラジルはジュート繊維を増産し自給できるようになった。サン・パウロ州では製麻会社が十数社にふえ、それぞれかなりの利益を享受する。ジュートの製糸、織布、製袋といった工場はサン・パウロ州に集中していたが、アマゾン地方でも製麻工場建設計画が進められていた。日本資本によるものである。太平洋戦争の勃発にともない、閉鎖されたCiasa に代わる事業として、ジェツーリオ・ドルネーレス・ヴァルガス (Getúlio Dorneles Vargas) 大統領が企図。上塚司が具体化した。戦後のブラジルにおける日本資本の進出で、これが第 1 号とされる。
 まず、上塚司の製麻会社設立構想を考察してみよう。Ciasa の強制接収により、上塚のアマゾン開拓事業は挫折した。ヴィラ・アマゾニアの土地および施設は、国有資産として国立ブラジル銀行マナウス支店の管理下におかれる。大統領が指名した清算人は、クローヴィス・カステロ・ブランコ (Clóvis Castelo Branco) 弁護士。
 同清算人は、1944 年 1 月 31 日付で財産目録を作成した。資産総額は Cr$2,455,969.10 [CASTELO BRANCO, Clovis; “Inventário da Ciasa”] 。そのうち未収債権は Cr$304,472.20 。これを不良債権とみなし回収不能と判断するなら、正味資産評価額は Cr$2,151,496.90 になる。国立ブラジル銀行の管理下にあった Ciasa の資産は 1946 年 4 月 6 日、競売に付された。応札企業は 1 社だけ。マナウス市のアラウージョ財閥に属する商社「ソシエダーデ・デ・コメルシオ・エ・トランスポルテ・リミターダ」( Sociedade de Comércio e Transporte Ltda. 、日本人の間では「有限会社アラウージョ商会」の名で知られる) [Banco do Brasil S. A.; “Carta à Sociedade de Comércio e Transporte Ltda.”, em 5 de junho de 1946] 。落札価格は Cr$700,000.00 [Banco do Brasil S. A.; “Recibo de Cr$700.000,00, da Sociedade de Comérciol e Transporte Ltda.”, em 6 de abril de 1946] [注 30]。
 こうしてヴィラ・アマゾニアは、商売がたきであるアラウージョグループの手に落ちた。施設の一部を改修し、またあらたな建物も建築し、Ciasa 時代とほぼ同じ仕事をしたが、ジュートブームには乗れなかった。ジュート産業はサン・パウロ州の製麻会社がおさえていたからである。もうひとつの原因は、アラウージョ財閥も三代目となったことにある。「仕事をしない孫」が数人いて、株主兼役員として君臨。経営実務を部下にまかせきりにしていた。第二次世界大戦後の経済事情が急速に変化し、サン・パウロ経済がアマゾン地方にも浸透し、どんどん拡散していく趨勢に対応できなかった。
 結局、収益性の低いキャッサバ、トウモロコシ、ゴム、カカオ、コーヒーなどの栽培に依存し、事業は衰退していく。1950 年代後半に、事業として成り立たないところまで追いこまれていた。その後、ブラジル在住の中国系投資家へ売却。竹を原料とするパルプ製造だが、ペーパープランのまま終わり、実現できないままヴィラ・アマゾニアを放置。
 それはともあれ、ヴィラ・アマゾニアの土地および施設が競売に付されたことを知った上塚司は、これを買いもどそうと考えていた。しかし、日本とブラジルは、1942 年 1 月 28 日(ブラジル時間)以来、国交が断絶したままである。連合国の支配下におかれ、自治権をうしなった日本は、どこの国であれ、直接国交をむすぶことはできない。結果論として、サン・フランシスコ講和条約( 1951 年 9 月 8 日調印)まで待たねばならなかった。そうこうするうちに、ブラジル側の事情が変わる。
 1951 年 1 月 31 日、ブラジルでは、エウリコ・ガスパール・ドゥトラ大統領(日米開戦時における陸軍大臣)の任期満了にともない、政権が交代した。1945 年以来、野にくだっていたジェツーリオ・ヴァルガスが大統領に復帰。前年の選挙運動で、アマゾン地方の経済振興をめざし、「サンタレン市に製麻工場を建設する」と公約。パラ州とアマゾナス州における票を増やした。この公約に飛びついた辻小太郎は、与党 PTB (ブラジル労働党)サンタレン支部長、エリアス・リベイロ・ピント(Elias Ribeiro Pinto) と組み、大統領へアプローチした。この人物は、サンタレン市に在住し、辻兄弟商会の保険部門担当社員だが、PTB 支部長としてパラ州の政界で名が知られ、1951 年 11 月の市長選挙で当選している。
 ピント支部長の斡旋により、1951 年 3 月 5 日、辻小太郎はヴァルガス大統領に謁見する機会をえた。席上、製麻工場建設の公約について確認。大統領は、「日本側が出資するなら製麻会社の設立を認める用意がある」との内意をしめす。辻はすぐに上塚司へ書簡を送った[辻小太郎書簡(上塚司あて、1951 年 3 月 4 日付)]。これを受け、上塚が動きだす[注 31]。
 辻書簡( 3 月 4 日付から同月 28 日付まで 5 通発信)にもとづきサンタレン製麻会社の件を検討した上塚は、まず、吉田茂内閣総理大臣(=当時)と話し合った。日付は不明だが、1951 年 4 月中旬と推測される。ブラジル側の事情を説明し、非公式ながら、製麻会社向け投資と移住再開について了解をえた。直接ヴァルガス大統領と交渉するため、ブラジルへ出張するべく準備を開始。国交が回復しない状態で日本人がブラジルを訪れるには、手続きが煩雑で、まず SCAP [注 32]の認可をえなければならない。
 SCAP の認可を待つ間に、上塚は日本の製麻工業関係者と話し合い、ブラジルむけ投資の了解をとりつけた[上塚司「サンタレン製麻株式会社の設立並三井物産との交渉に入るまでの経過に就て」、3-4 p.]。こうした準備を終え、SCAP の認可もでたので、上塚は 8 月 2 日の便で空路ニューヨークへ飛んだ。ブラジルの査証は一日でおり、6 日にベレン空港へ到着。でむかえた辻小太郎とともに、ザカリアス・アスンサン (Zacarias Assumpção) パラ州知事、ガブリエル・エルメス・フィーリョ (Gabriel Hermes Filho) アマゾニア信用銀行総裁、アントニオ・マルチンス・ジュニオル (Antonio Martins Júnior) パラ州商業会議所会頭らと会見。サンタレン製麻会社計画に対する出資支援を要請した。
 同月 11 日、サンタレン市で、エリアス・ピントら地元関係者と話し合い、同月 18 日、製麻会社設立委員会を組織し手続きに入った。設立準備がほぼ終わり、9 月 19 日、上塚司と辻小太郎はベレンから空路リオへ向かう。同月 27 日、辻小太郎、ピント支部長をともないジェツーリオ・ヴァルガス大統領と会見した。
 上塚司は 1940 年にヴァルガス大統領と会見している。同年 10 月、アマゾン地方視察で、大統領機(ブラジル海軍の大型水上機)がサンタレンからマナウスへむかう途中、パリンチンス市街地前の水上給油所へ着水。給油中の 30 分ばかり、パリンチンス市長とともに謁見した(往路は 10 月 9 日、復路は同月 14 日)。このたびは 3 回目であり、大統領も上塚の事業 (Ciasa) についてはおぼえていた。だから、多くの説明を要せず、サンタレン製麻会社の計画書を提示しただけで話がつうじる。日本側の出資については、旧 Ciasa の資産[注 33]の売却代金返済をもとめ、これを出資金にあてることにした。この件についても大統領は了解。
 さらに、ジュート増産のため、日本人移住者の導入についても要請。1952 年から起算して 5 年間に 5000 家族(総数 25,000 人)送出する案である。この件も大統領は即座に内諾をあたえた。ヴァルガス大統領は、もともと「日本人ぎらい」である。だが、サンタレンに製麻工場を建設するという、選挙公約はぜひとも実行したい。だから、新規移住についても、「受入地はアマゾン地方に限る」という条件で、上塚の要望をうけいれた。
 移民計画を承諾した大統領は、ただちに国家移植民審議会( CNIC - Conselho Nacional de Imigração e Colonização 、移民受入決定機関)のニーロ・アルヴァレンガ (Nilo Alvarenga) 会長へ上塚請願書を回付、ただちに手続きするよう指示。同会長は、数回にわたり会議を開き、慎重審議の結果、10 月 17 日、満場一致で認可した[注 34]。ただし、「日本人 移住者 25,000 人の受入認可」が、官報で公布されたのは同年 12 月 6 日のことである。
 ヴァルガス大統領との会見成果を手に、上塚司は 10 月 24 日にリオを出立。ベレンへもどり政財界の有力者へ報告するとともに、製麻会社設立の細目について協議した。主要案件は、出資に関するものと役員構成である。こうして、11 月 10 日、サンタレン市にて設立総会を開催。ベレンからは、アマゾニア信用銀行総裁、パラ州商業会議所会頭およびオスカール・フランコ (Oscar Franco) 理事が出席。社名を「サンタレン製麻株式会社」 (TECEJUTA - Cia. de Fiação e Tecelagem de Juta de Santarém) とした。
 略称は「テセジュッタ」 (TECEJUTA) 。ブラジルと日本の資本で設立された、いわゆるジョイントベンチャー企業の第 1 号である。この製麻会社設立について、当時アマゾン地方にいた元アマゾニア産業研究所および Ciasa 関係者の一部をのぞき、ブラジル在住日本人の間ではほとんど知られていない。
 取締役社長は地元サンタレンの事業家フッツ、専務取締役は辻小太郎。資本金は 700 万クルゼイロ(額面 500 クルゼイロで 14,000 株を発行)。筆頭株主はアマゾニア信用銀行 (BCA - Banco de Crédito da Amazônia S. A.) のガブリエル・エルメス・ジュニオル総裁で、6000 株を所有。ついで、上塚司( 1300 株)、辻小太郎( 700 株)、パラ州政府( 600 株)、サンタレンの事業家マリオ・コインブラ( 500 株)の順。パラ州およびアマゾナス州の市民多数が少数株主(総数 3,560 株)として出資。それとは別に、旧 Ciasa 職員、実業練習生その他の日本人が合計 540 株を保有した。残りはサンタレン市の名士や商店主らがひきうける。
 出資金は主として土地購入と工場建設費にあてられ、機械設備は日本側で別途の資金を調達して取得。これを、増資の形で現物出資することになっていた。機械到着後 30 日以内に臨時株主総会を招集する件も決定。そのとき役員改選をおこなう。取締役(定員 5 名)のうち、「社長をブラジル側、副社長および専務を日本側にそれぞれ割り当てる」という協定をむすぶ。ただし、実際に選ばれた取締役はつぎの 4 名。
・取締役社長=ヴァルテル・プッツ (Walter Putz)
・専務取締役=辻小太郎
・取締役(営業担当)=マリオ・メンデス・コインブラ (Mário Mendes Coimbra)
・取締役(総務担当=エリアス・リベイロ・ピント (Elias Ribeiro Pinto)
[注 30] (20 p.) Ciasa の競売における落札価格 (Cr$700,000.00) について、日本人の間では「安すぎる」とか、「タダ同然」といわれた。しかし、「評価額の 3 分の 1 相当」というのは、当時、倒産企業の資産競売における常識であり、妥当な線といえる。カステロ・ブランコ清算人が評価した資産額は、Ciasa の資産台帳にもとづくものであるから、「高い、安い」の詮議は無意味。所有地のなかには、もちろんアンディラー模範植民地もふくまれるが、ジュートあるいは永年作物栽培農家へ譲渡した土地は除外された(個人資産として認められた)。アマゾナス州の農地は安い。ヴィラ・アマゾニアの施設は 4 年間まったく使っておらず、放置された状態にあったので、再生林を形成しつつあり、施設の傷みもはげしい。接収時に畑地と同じ評価はできないであろう。

[注 31] (21 p.) 上塚司は、戦後最初の衆議院選挙( 1946 年 4 月 10 日投票)に立候補し当選。しかし、まもなく、公職追放令により議員資格を剥奪された。戦時中、大日本産業報国会の総務部長を務めた経歴があり、戦犯容疑者とみなされたからである。だが、釈明書を提出し、政治工作をこころみた結果、1949 年に容疑が晴れ解除された。これにより、自由の身となったため、1951 年 4 月 1 日投票の熊本県知事選挙に立候補するも落選。それまでは選挙運動で多忙だったが、ようやくヒマができた。辻小太郎(パラ州サンタレン市在住)とは、1946 年より郵便で連絡しあってきたが、1950 年に入ってから、辻の発信はかなり頻繁になる。日本人のブラジル移住再開の希望が生じたためだった。さらに、大統領選におけるヴァルガス候補の公約(サンタレン市に製麻工場を建設する案)もあって、辻は上塚へ日本側の政治工作と資金調達を要請。書簡による意見交換をするうちに、辻はヴァルガス大統領に謁見( 1951 年 3 月 5 日)。日本側の出資によるサンタレン製麻会社設立と、日本人移住者送出の件について内諾の意向をえた。上塚がすぐに行動をおこしたことにより、2 件とも年内に決定。それぞれ具体化された。

[注 32] (21 p.) 日本人が海外旅行をするには、まず、スキャップ (SCAP: Supreme Commander for the Allied Powers) の許可が必要。この機関は 1945 年 8 月 30 日、横浜市に設置され、GHQ ( General Headquarters、連合国最高司令官総司令部)と呼ばれた。同年 9 月 8 日、東京へ移転したとき SCAP (連合国軍最高司令部)と改称。ブラジル訪問にあたり、SCAP が「正当な事由」と認めた場合にのみ、アメリカ経由での旅行が認可される。つまり、いったんニューヨークへいき、同地のブラジル領事館で入国査証を申請する。査証がすぐに発給されるよう、SCAP はアメリカ国務省をつうじて、ブラジルのニューヨーク駐在領事へ説明しておく。事前に話がつうじていなければ、査証取得のため数週間ないし数か月も待たされるであろう。こうした手続のなかで、もっともむずかしいのは、SCAP の認可だった。さいわい、吉田茂内閣総理大臣には、サンタレン製麻会社および日本人ブラジル移住再開の件につき了解をえていたので、外務省をつうじて SCAP へ働きかけてもらった。連合軍最高司令部も了解。上塚のブラジル出張を可能にするため、ブラジル入国査証をアメリカで取得できるよう手はずを整えた。ただし、ブラジル外務省の了解をとりつけ、最終的に SCAP の認可がおりたのは 7 月 19 日のことである。上塚は、8 月 2 日の航空便でニューヨークへむけ出立(ベレン到着は同月 6 日)。

[注 33] (21 p.) ここでいう「旧 Ciasa の資産」とは、1946 年 4 月 5 日の競売で、資産目録に掲出された土地や施設をいう。落札したのは、マナウス市のアラウージョ財閥グループに属する中核企業、「アラウージョ商事運輸会社」 (Sociedade de Comércio e Transporte Ltda.) 。日本人の間では「アラウージョ商会」と呼ばれていた。代金 70 万クルゼイロは国庫に入ったが、実際には国家経済防衛局 (AGEDE - Agência Especial do Governo Federal de Defesa Econômica) が管理。1950 年 11 月 4 日付法律第 1224 号により、戦争中に凍結しあるいは接収した資産の返還が可能になったため、旧アマゾニア産業株式会社(投資会社)にも権利が生じた。ただし、この会社は 1944 年に閉鎖されており存在しない。閉鎖の際にアマゾニア産業株式会社の権利一切をアマゾニア産業研究所が継承したため、ブラジルへの投融資にかかわる権利を保有。研究所理事長である上塚司はこの権利をもって、AGEDE に対し資産の返還を請求した。この機関はリオ・デ・ジャネイロ市の国立ブラジル銀行本店内にあった。

[注 34] (22 p.) この間の経緯について、上塚司は「戦後の海外移住と日本海外移住振興株式会社を廻りて」 (4-5 p.) で説明している。第二次世界大戦後における日本人のブラジル移住について、一般に「辻小太郎がヴァルガス大統領へ要請し認可をえた」との誤解がある。交渉の責任者は上塚司であり、辻はエリアス・リベイロ・ピント(ブラジル労働党サンタレン支部長)をつうじて大統領へ打診したうえで、上塚が謁見できるよう段取りをつけたにすぎない。日本人移住者受入の正式認可は、国家移植民審議会( CNIC - Conselho Nacional de Imigração e Colonização 、移民受入決定機関)の決定によるもの。日本人移住者の受入は、TECEJUTA (サンタレン製麻会社)設立の付帯条件であるから、戦前の移住と同一視できない。たんなる農業移住であれば、審議会も認可しなかったはず(独裁政治体制崩壊後のことであるから、ヴァルガス大統領が審議会に圧力をかけるのはかんたんでない)。正式認可のあと、上塚司は日本側送出責任者となった。戦前に設立したアマゾニア産業研究所が、ブラジル向け移民送出権を保持していたからである。ブラジル側では、暫定措置として辻小太郎が受入責任者となり、辻名義で「日本人移民受入認可申請書」を提出した。このため、アマゾンむけ移住者は「辻移民」と呼ばれる。その後、1954 年に「アマゾニア経済開発株式会社」(取締役社長=辻小太郎)へ名義変更される。一方、日本側の送出権は 1954 年、日本海外協会連合会へ名義変更された。それにともない、ブラジル側の受入権も、1955 年に同連合会ベレン支部へ譲渡された(当時はまだ非公式な駐在員事務所だったので正式な名義変更は 1959 年にずれこむ)。なお、辻移民とは別に「松原移民」と呼ばれるものがある。辻に対する「移民受入認可」を知った松原安太郎(サン・パウロ州マリリア市在住、ヴァルガス大統領の友人)が、ヴァルガス大統領と個人的に交渉して内諾をうけ、CNIC へ申請したもの(認可は 1952 年 6 月)。アマゾン地方およびサン・パウロ州以南をのぞく中央ブラジル全域を対象に、4000 家族( 20,000 人)の受入認可をうける。だが、1955 年には資金難で継続でき、トラブルが発生。松原は受入権利を日本海外協会連合会(リオ支部)へ移管すると、移民事業から撤退した。


3-4 遅すぎた工場の稼動
 ここまでは順調に運んだが、製麻用機械装置の取得に関する日本側の投資でトラブルが発生。日本の製麻業界は、もともと「アマゾンのジュート」に関心がない。1951 年は朝鮮動乱が終結し、反動で日本経済は不況におちいる。製麻業界も不況だった。上塚がブラジルへ出発する前に、サンタレン製麻工場計画への出資を約束していたにもかかわらず、各社ともこれをしぶりはじめる。帰国した上塚は、製麻業界各社と協議するが、出資の件はむずかしかった。
 上塚は別の商社「日商株式会社」および「日本麻紡績機械株式会社」と交渉し機械を発注。支払には、ブラジルにおける Ciasa 資産凍結解除金を充当する。こうして、機械は製作された。だが、Ciasa の凍結資産はなかなか解除されない。結局、上塚司の資金計画は挫折。機械を受領できないため、TECEJUTA では、「日本の資金をあてにできない」と判断し、別の政治工作をはじめた。ヴァルガス大統領の「鶴の一声」で、国立アマゾナス銀行(アマゾナス信用銀行を改組)の特別融資が決まる。
 ところが、思惑どおりに運ばない。融資は決まったが銀行に資金余裕がなく、実際の貸出は大幅に遅れた( 1953 年 12 月 10 日になりようやく Cr$3,950,000.00 を融資)。そして、1954 年 8 月 24 日、ヴァルガス大統領が自殺。暫定政権のもとで、政界も経済界もゆれうごく。ヴァルガス政権との関係が深い TECEJUTA では、後難をおそれた社長以下役員が辞任。とうぜん、辻小太郎専務取締役も辞任を強いられ社外へ去った。こうして、上塚司とサンタレン製麻会社との関係は途絶する。
 新任社長はシルヴィオ・ブラーガ (Sílvio Braga) 。パラ州議会議員である。あらためて、アマゾナス銀行から新規融資を引きだす。日本の機械はキャンセルしイギリスへ発注。1956 年、機械を据え付け工場を稼働させた。だが、技術的な問題もありうまくいかない。試行錯誤でもたつく間に、運転資金がつまってきた。1959 年には会社の維持が困難になった。
 ちょうどそのとき、エリアス・リベイロ・ピント(創立時の取締役)が、新設された SUDAM (アマゾン開発庁)のプロジェクト審査官 (Supervisor) に就任。TECEJUTA への特別融資( 8000 万クルゼイロ)を認可したため、どうにか事業を継続できた。だが、時すでに遅し。ジュート景気に乗ることはできなかった。当時すでにサン・パウロ州の大手メーカーがアマゾンへ進出し、ジュート生産量の大部分を押さえている。地元企業が新規参入しても、とうてい太刀打ちできるものではない。しかも、ジュートの主産地はアマゾナス州であるから、サンタレンの工場は原料繊維を買い集めることがむずかしかった。
 1960 年代もジュート景気はつづいたが、過当競争の時代である。TECEJUTA はなんとか稼働したものの、業績は伸びない。1970 年代のジュート需要後退(最大の用途であった輸出用コーヒー袋がプラスチック繊維袋になったこと)により事業はしだいに縮小され、1980 年代に悪性インフレのなかで倒産した。最後の社長は辻小平(辻小太郎の弟、元 Ciasa 営業部社員)だった。
 余談ながら、上塚司は TECEJUTA との関係が切れたあと、第一物産(三井物産の子会社)をつうじて、別の製麻会社設立をはかろうとした。旧 Ciasa の競売代金は、国立ブラジル銀行経由で、AGEDA (国家経済防衛局)から返還をうけることになっていたからである。ところが、結局は受領できなかった[注 35]。
[注 35] (23 p.) 旧 Ciasa 競売代金(売却時の価格は 70 万クルゼイロ)の返還申請にあたり、上塚司の代理人として辻小太郎が手続きをした。申請書を提出したあと、辻は結果の報告をしなかったため、上塚自身もこの件を忘れていた。1970 年 11 月 25 日に死去したとき、遺品のなかから、TECEJUTA への出資金払込領収証がでてきた。遺族はこれをサンタレン在住の飯田義平(第 1 回実業練習生)へ郵送。飯田は製麻会社設立の経緯を熟知していたので、上塚司へ転送した[ 1970 年 12 月 14 日付飯田義平書簡]。この領収証により、上塚は TECEJUTA へ「個人名義の出資金」について払い戻しを請求したところ、会社側へ払い込まれていないことが判明。飯田義平が上塚の代理人となって調査し、事実であることを確認。辻( TECEJUTA 専務取締役)は会社から払込の領収証を受領したが、国立ブラジル銀行は会社の口座へ振り込んでいなかった。上塚は飯田をつうじ、あらためて AGEDE (国家経済防衛局)と交渉。申請書の準備に年月を要し、1977 年にようやくととのう。AGEDE もこれを認めた。だが、役所の手続きは時間がかかる。とりわけ、支払については遅い。国立ブラジル銀行本店(リオ・デ・ジャネイロ市)がサンタレン支店の飯田義平口座への振込でもたついている間に、1978 年 10 月 20 日、上塚司が死去。飯田も前から健康問題があって気力がおとろえる。必要書類の調達で、サンタレン、リオ、サン・パウロの間をかけめぐることもむずかしくなった。1976 年からは、ベロ・オリゾンテ市(ミナス・ジェライス州、長女の家)で療養。サンタレンで過ごす日数も少なく、銀行との交渉はほとんどできなくなった(病状が進み 1989 年 6 月 18 日に死去)。やがて銀行側は上塚の死亡を知る。「最終受取人不在」を理由に支払を停止。旧 Ciasa 資産にかかわる返還問題は、このような形で終結した。

3-5 南北経済の統合
 ジュート産業における日本人の貢献で、長繊維品種の導入とアマゾン地方における栽培の普及を説明した。これらは直接的貢献であるが、ほかに間接的な成果があり、ブラジル経済にとってはそのほうが重要とされる。つまり、ジュート栽培の成功により、アマゾン経済が南部経済(主としてサン・パウロ州)と直結したことをいう。
 ブラジル国内における南北経済の結合についてふれた文献は少ない。本間は、「この作物[中野注記=ジュート]が普及したことにより、ブラジル北部と南部のあいだで最初の経済結合をもたらし、アマゾンにおける工業化プロセスの端緒となった」[Homma "Amazônia", 35 p.]と記述する。研究者による記述として、おそらく最初のケースであろう。
 ジュートの栽培はアマゾン地方でおこなわれたが、収穫した繊維の大半はサン・パウロ州の製麻会社へ送られた。原材料生産地と加工地が直結したことを意味する。ジュートが出現するまで、アマゾン地方の産品が南部諸州むけ重要商品となったことはない。ブラジル経済史のなかで、アマゾン地方の産業といえば、天然ゴムのラテックス採取だけである。これを生ゴムの形で輸出した。輸出先はイギリスであり、リオ・デ・ジャネイロ市やサルヴァドール市ではなかった。
 19 世紀末から 20 世紀初めにかけてのゴム景気は、イギリス経済をうるおわせたが、ブラジル経済にとってはほとんど無意味な存在だった。たしかに、輸出関税は国庫に入ったが、密輸出があまりにも大きすぎた。同じ時期に輸出の花形商品だったコーヒー、砂糖、カカオとは比較にならない。産業としてアマゾン経済にはいくらか貢献したのは事実である。だが、アマゾンの住民に恩恵があったわけではなく、主としてイギリス資本の商社と、ラテックス採取におけるアヴィアドール(地元商人)をうるおわせたにすぎない。少なくとも、首府リオ・デ・ジャネイロとは無関係な産業だった。
 天然ゴムをのぞくと、アマゾン地方には産業らしいものは芽ばえなかった。だからこそ、経済開発が遅れたわけである。ほとんど未開のまま 20 世紀に入り、1930 年代末になってジュートが登場。初めて南部地方の経済と関係をもつにいたった。同じ農業部門とはいえ、天然ゴムの場合、地元民はイギリス商社に搾取された。ジュートは、サン・パウロの製麻会社が直接買付した。国内の商習慣による「買いたたき」はあっても、ゴム景気時代とはくらべものにならないほど小さな問題にすぎない。
 ゴム時代の地元民は、アヴィアドールに使役される労働者だったが、ジュートの場合は生産農家という立場で栽培した。たんなる労働力なのか農業経営者なのか、この相違は大きい。ジュートは地元民の経済水準を向上させたので、未開のアマゾンといえども消費経済が発達しはじめる。これを支えたのが、南部地方の工業だった。加工食品、日用品雑貨、衣料品など、生活必需品を供給した。それまで、ほとんど自給自足経済にあまんじていたアマゾンの農民が、消費者経済の主役となったわけである。地元経済を発達させただけではない。リオ・デ・ジャネイロ市やサン・パウロ市の工業にとって、「あらたな市場」が出現したことになる。
 こうして、アマゾン経済と南部経済に接点が生じ、ジュート増産とともに関係が強化されていった。南北経済の融合である。1950 年代から1960 年代にかけて、ジュート産業の全盛期になると、融合から統合へとかわっていく。マナウスが自由貿易港となったのも、ジュート産業発展による間接的結果のひとつである。1970 年代の “Proterra” ( Programa de Redistribuição de Terras e de Estímulo Agro-Industrial do Norte e Nordeste 、北ブラジル・東北ブラジル農地再分配・農工業振興プログラム)やトランスアマゾニカ計画( Transamazônica 、アマゾン横断道路建設と沿線の農業開発計画)も、南北経済統合から生じたものといえよう。
 いずれにせよ、20 世紀後半のアマゾン地方における経済開発事業は、国内経済の統合がなされたからこそ、提案され、議論され、実行されたといってよい。統合の根源をさぐれば、ジュートにいきあたる。ブラジルの先進地域から隔離され、なかば忘れられていたアマゾン地方を、ジュートが経済的重要地帯に変貌させた。未開の北部地方を国家経済に統合させるべく、ジュートが仲だちしたといえる。これほど重大な事実であるにもかかわらず、経済史のなかではほとんど無視されてきた。一時的な興隆期はあったが、比較的短期間に消滅した産業は、歴史としての重要性を認められないのかもしれない。
 アマゾン経済の発展と南北経済統合の出発点になったのがジュートであり、それを導入し産業化へのきっかけをつくったのが日本人である。これを経済貢献度という点から評価するなら、日本人は国家経済のあらたな方向づけに献身したことになる。サン・パウロ州やパラナ州における農業開発とは、比較にならない大きな貢献といえよう。それほど重要な役割をはたしたにもかかわらず、日本人社会では評価されなかったし、今日なお評価されていないのはどうしたことか。移民史研究報告でこの件にふれたのは、本間アルフレッド ["AMAZÔNIA” (1998), "História da Agricultura na Amazônia” (2003)] だけというのも、さびしいことである。

参考資料 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros