バストス、Festa do Ovo見物記
柴田寛之(当研究所2016年度専任研究員)
quarta-feira, 09 de agosto de 2017

研究員としてサンパウロ人文研に来てから早くも10ヶ月近くが過ぎました。人文研での研究もいよいよまとめに向けてラストスパートです。さてこの度は、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)によって開発された日本人移民移住地として有名なバストスのたまご祭り(Festa do Ovo)に参加してきましたので、その見物記をレポートしたいと思います。

去る7月14日から16日まで開催されたバストスのたまご祭りは、今年で58回目(初期は数年に一回の開催)を数えるブラジルの日系社会でもよく知られたお祭りです。今回たまご祭りを体験して見えてきたのは、現在のたまご祭りは大きく分けて3つの要素から成り立っているということです。すなわち、1) バストス出身者の里帰りの機会、2) 養鶏関係者のエキスポ、そして、3) ブラジル地域社会の祭りとしてのたまご祭り、という3つの側面です。もともとは日本移民の入植祭として始まったお祭りが次第に現在の形へと変化してきたことの中に、バストスの日系人社会の変化が反映されているように思えます。以下ではそれぞれ3つの側面について紹介していきたいと思います。


飲食エリアでの歓談
第一に、現在はサンパウロやパラナなどの他の都市に住んでいるバストス出身者がお祭りを機会にバストスに里帰りする機会としての側面です。土曜日のお昼にお祭り会場の飲食エリアでインフォーマントの方と昼食をとっていた1時間足らずの間にも、4、5組の親戚の方がインフォーマントの方を訪ねて来て旧交を温めていたのが印象的でした。そもそもバストスの入植祭は、1928年6月18日の当地の地主とブラ拓との間に成立した土地の売買契約をもってバストスの開拓記念日としたことに端を発します。それ以来、入植祭は毎年6月18日に行われていました。しかし、1950年代の後半に入り、バストス出身の第2、第3世代の多くがサンパウロ市などバストスの外に高等教育を受けに出るようになると、まだ学期中の6月では入植祭の時にバストスに帰ってこられないことが多々生じるようになります。そこで冬休みに入った学生たちがバストスに帰ってこられるようにとお祭りの時期を6月から7月に移動させた経緯がありました(『バストス日系移民八十年史』38頁)。このことは日本移民の町として知られるバストスでも既に1950年代後半には、移民第2、第3世代のブラジル社会への進出と拡散が、お祭りの時期を移動させる必要が生じるほどに進んでいたことを示唆しています。ブラジル社会の中に拡散していった戦後世代にとって、現在のたまご祭りは故郷で家族を訪ねまた旧交を温める一つの機会となっているように見受けられます。


卵で装飾されたエキスポ会場入り口の歓迎門。1948年の第1回Festa do Ovoでも類似のデザインが採用されている


養鶏エキスポの会場、養鶏関係の器材が所狭しと並ぶ
第二に、養鶏関係者のエキスポとしてのたまご祭りの側面です。1930年代後半から段階的にバストスに導入された養鶏は、しかし、戦前期では綿作、養蚕が主流の産業であり、あくまでも副業としての位置づけでした(『バストス日系移民八十年史』130頁)。しかし、綿作、養蚕の一大ブームが去ったことによって、戦後養鶏事業がバストス在住の日本移民たちの主要な産業として注目を集めていきます。バストスの写真集(“Álbum Bastos e Sua História 45 anos”)を見ると、早くも1948年のたまご祭りにはたまごで装飾された歓迎門が展示されており、戦後のバストスでの養鶏にかける意気込みが感じられます。とはいえ、古くからバストスに住んでいる方に話を伺うと、1960年代の中頃までは、そこまでたまごを全面に出した催しではなかったようです。1960年代の様子を知る人によれば、当時はたまごだけではなく、ポンカン、ミシリカ(ミカンのような柑橘類)などの果物や露地野菜を含めた農産品の品評会が祭りの中心行事として行われていたと話でした。養鶏が町の中心的な産業として発展していく中で、ここ20年ぐらいの間に養鶏エキスポとしての側面が強くなってきたとのことです。現在ではサンパウロや他州の養鶏関係者を広く招き、講習会や意見交換会が行われるまでになっています。こうした養鶏関係者の懇談会、商談会としての側面は、しかし、養鶏業界に携わらない一般の人からすると縁の薄いものだと言わざるを得ないでしょう。エキスポ会場で養鶏関係者の方々が熱心に商談を行っている傍らを、一般の方がさして関心もなさそうに素通りしていくという光景を何度も目にしました。古くからバストスに住んでいる方もお祭りが一部の人々だけのものになっていて、入植祭でもあるたまご祭りが忘れられてしまっているんではないだろうか、と少し心に引っかかりがある様子でした。


日が暮れると移動遊園地が動き出す
そして第三の側面は、サンパウロ内陸部の地域社会のお祭りとしての側面です。数十キロ、時には100キロ以上離れて点在するサンパウロ内陸部の中小都市群にとって、たまご祭りのような催しは数少ないビッグイベントとなっています。この機会を捉えて、日系人に限らず、近隣の街からコロニア語でいうところの「ガイジン」の人たちもお祭りに数多くやってきます。彼らにとっての関心の中心は、入植祭としてのたまご祭りの側面よりも、お祭りの期間中毎晩行われるセルタネージョのショーであり、移動遊園地のような催しであるようです。バストス在住の方によれば、お昼の比較的落ち着いた時間帯に来ている日系人だけを見渡しても知らない顔が多々あり(小さな町ゆえか街の人はみな知り合いという状況があるようです)、夜のセルタネージョのショーともなれば外からやってきた「ガイジン」が観客の半数以上を占めるそうです。たまご祭りのこうした側面は、ブラジル社会の祭り(Festival)としての顔であるといっても過言ではないでしょう。実際、日が暮れるにつれて祭り会場に集まる人の数は増え、夜10時過ぎに始まるセルタネージョのショーで人の動員が最高潮に達するといった流れが出来ているように感じられました。そこでは入植祭としての側面は影を潜め、ブラジルの地域のお祭としての顔が前面に出てきていました。

このように3つの側面が混在するバストスのたまご祭りですが、その外面的な派手さから受ける雑駁な印象としては、次第に第2、第3の側面が大きくなってきているように感じられます。今回のバストス訪問は、日本移民の入植祭として始まったバストスのたまご祭り — そもそも古くからバストスに住む人はたまご祭りというより入植祭という呼び方のほうに馴染みがあるようです — が次第に第2、第3の側面が付け加わることによって、ブラジルの地域のイベントとして変遷してきている様子をうかがい知る貴重な機会となりました。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros