矢崎節夫
矢崎節夫(やざき・せつお)
quinta-feira, 17 de janeiro de 2008

 矢崎節夫氏は、明治22年(1889)1月25日、信州諏訪市に生れた。小学校時代中村國穂と云う先生に学んだが、この先生は機会ある毎に児童へ海外事情を吹き込んだ。海外発展は小学教育からというのが中村氏の持論であつた。矢崎氏もこの人に感化され、海外発展という芽生えをした1人で明治40年(1907)、諏訪中学を卒えると、南米アルゼンチンの広野にあこがれ、渡航の準備も整つていたが、翌年笠戸丸がブラジル移民を乗せて神戸を出帆すると知り、急転ブラジル渡航を決した。青年時代の夢は、それが緑の平原であり果てしなき大海原である限り何処でもよいのである。こうした夢の主は、もちろん矢崎氏一人ではなく笠戸丸には、香山六郎、間崎三三一両氏はじめ3,4人の独身青年が乗つていた。

 着伯後、先ず食わねばならず、食うには働かねばならぬとあつて、矢崎氏は、明治41年(1908)8月、サンパウロ市のモッカ競馬場附近で、鞍谷氏と野菜や花作りをやつたり、後ビスケツト会社で1日2ミルの給料で働き、そのビスケツトのかけらで空腹を満たしたこともあつた。翌年、せっかく日本で思い立つたアルゼンチン行きが忘れられず、首都ブエノス・アイレスまで渡り、瀧波商店に勤めたが、金の成る木がある筈もなく、さらにウルグァイ国に移り、サン・ホセー町で言語の習得かたがた牧畜方面の研究をしてみたが、これも容易でないと解り、マヌエル・イリサル歯科医の助手をして1年ほど働いた。越えて明治43年(1910)、第2回移民船旅順丸が来伯するのを知り、日本人恋しさに、再びサンパウロ市へ舞い戻つた。当時リオ・デ・ジャネイロ港内サンタ・クルース島ラージ造船所に第1回移民の逃亡組が2,30名働いていたので、これの通訳として雇われ、後、佐久間重吉氏と共に、同州イグアスー村附近で、借地して米作をやつた。マラリヤでどうにもならず、半年で退散した。大正元年(1912)、リオ市に開業していた米人歯科医について、また1年程技工を習い、大胆にも同市で開業した。

 大正4年(1915)、森岡移民会社は、その代表西禎蔵氏(予備海軍中佐)を伯国に送り、移民契約を企てた。当時、矢崎氏は、すでに一角(ひとかど)のブラジル通であつたから、西代表の依頼をうけ、最初、ミナス・ジェライス州政府と交渉、次いでサンパウロ州に来たが、当時はモラエス・バーロスの農務長官時代で、日本移民は好かぬとのことで、東洋、南米両移民会社の運動は効を奏さなかった。翌5年(1916)、森岡移民の方は契約が出来かけていた所、日本において上記3社を一丸とするブラジル移民組合なるものが組織されたので、矢崎氏は御用済みとなり、同年、松村総領事の御伴をして各地を旅行した。大正6年(1917)、ラビアノ・コスタ・マッシャード氏のチエテ湖畔在、パライバ耕地で、お茶の栽培を始めたが、途中、同耕主の懇請で、有名な石山耕地ヴィイラ・コスチ−ナ珈琲園に監督として就職した。ここで200家族の内外人移民に号令をかけていたが、大正7年(1918)、耕主の所有するガルサ耕地を開拓することとなつた。現在、ガルサ植民地のある所で、当時1アルケール(2.5ヘクタール)は、50ミル3回払いという、奥地とはいえ安価なものであつた。

 かくてサンパウロ州内の日本人も増加し、矢崎氏自身も、マカコ・ヴエーリヨ(老猿:在伯邦人の年功を経た人の通称)として、一見識持つようになつた。体躯強大にして押し出しもよく、特に立派な髯の持主であつたことなども、かなり有利に手伝つて、大正10年(1921)10月、海外興業株式会社経営のアニューマス農場長に出世した。ここでマラリヤ退治をしたり、珈琲園経営では一権威と評価され、青柳郁太郎氏のお目に止まつて、昭和2年(1927)にはレジストロ植民地の顧問を兼任した。その間、ヴィラ・コスチ−ナ時代に(1921年7月)有名なブラジル人の姪(アディリア・バルカイロ・リマ現夫人)と、どうしたはずみか恋愛が成立して結婚し、もちろん子供もできた。この国際結婚はその後の半生に、かなりの影響があつたようである。

 矢崎氏が社会人として著しく浮び出でたのは、昭和5年(1930)2月、「ブラジル拓殖組合」の事業部主任として、海興より転籍してからである。昭和11年(1936)には、パラグァイ国に植民地を新設するというので、その調査に赴き、翌年、再度出張して、この国に植民地を開設した。この間、幾多の対外的難事業を完遂し、同年8月無事古巣のサンパウロ市に引きあげた。同じくその年、拓務省の嘱託として、北村豊治氏と共に、ウルグァイ国に入り、植民事業に関する調査をすすめる等「ブラ拓」時代は、矢崎氏の全盛期であり、同時に在伯同胞のために、最も仕事をした時代といえる。翌13年(1938)1月、ブラ拓を退き、日伯産業会社を設立して、自ら陣頭に立ち依頼されてパラナ州ウライのピリアニツトの2万ヘクタールの土地売りもやつた。

 1939年(昭14)、同社の商事部を独立し、日伯商会としたが、日伯国交断絶後、三井系の商事会社と誤認されてブラック・リストに入れられたので1943年(昭18)、リマ・カント商会を創立し、1948年(昭23)、日伯土地会社を設立(サンパウロ市近郊の土地売買)大いに騏足(きそく:すぐれた才能)を伸ばした。公人としては、聖市(サンパウロ市)日本人会長、文教普及会理事、日本戦災同胞救援会聖市地方副支部長、龍翁会代表、伊勢神宮奉讃会伯國支部長等を歴任した。野球フアンとして知られ、1916年(大5)、松村総領事に野球道具を貰つて、同年9月24日、スダン球場でブラジル最初の野球をやつたという、伯国球界の草分け組の一人である。

 終戦後、二度目の日本訪問をしたが、帰伯後、宿痾(しゅくあ:持病)の心臓疾患で1954年(昭29)3月1日、幽明境を異にした。行年65才。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros