戦前日本移民の読書傾向
エドワード・マック Edward Mack (ワシントン大学シアトル校アジア言語・文学学科教授)
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

ブラジルにおける第二次世界大戦以前の日本語による出版物の市場を調査している。まだ研究の途上ではあるが、現在までに明らかになっているのは次の通りである。

 ほとんどの移民が直面したであろう厳しい生活環境にもかかわらず、印刷の需要がすぐに生まれた。それらは、祖国の新聞であり、雑誌であり、また書籍であった。最初期の読者は、①日本から運ぶ ②友人から借りる ③出版社に直接注文する ④雑貨屋から購入する、おそらくこの4つのうちいずれかの方法により出版物を手に入れていた。書籍の広告で現在見つかっている中でもっとも早いものは、1918年2月1日、サンパウロにある木藤という書籍販売を行っていた雑貨屋によるものであった。いうまでもなく、書籍販売は工具、薬、袋、醤油を商っていた木藤の主要ビジネスではなかった。

 第二次世界大戦以前にブラジルで手に入れることが出来た本については、遠藤商店(のちの遠藤書店)による新着在庫の広告により、おおよその見当をつけることができる。もちろん、このデータだけに頼ることは出来ない。しかし、これらの広告は書籍在庫が劇的に増えていったことを示していると言えるだろう。例えば1924年に15タイトルであったのが、1935年には400タイトルにのぼっている。

 ブラジルの消費者が小説を買うとき、彼等は日本国内で流行していた作家を選んだ。例えば当時の流行作家であった佐々木邦(1883-1964)は、自身も日本の植民地である釜山に住み、教員として働き、そこで処女作『いたづら小僧日記』を執筆した(1909)が、1935年から1940年の間に、少なくとも佐々木の作品20作を書店広告に見いだすことができる。佐々木の作品を多く出版した講談社は、多くのブラジルで入手可能な本の出版元でもあった。講談社は定期的に雑誌広告を日本語新聞紙上に掲載しており、自ら市場の開拓をしていたように見受けられる。この事実は、なぜ設立者である野間清治(1878- 1938)の本が同時期の広告に少なくとも15回現れるのかを説明してくれるだろう。

 野間に次ぐ頻度で現れた作家は鶴見祐輔(1885-1974)、菊池寛(1888-1948)、直木三十五(1891-1934)の三人で、それぞれ少なくとも13回以上広告に掲載された。政治家兼作家であった鶴見の作品は多岐に渡り、小説(『母』、『子』、『父』)や著名な欧米人に関する書籍(ディズレーリ、ナポレオン、バイロン、ビスマルク)がある。菊池の作品はこの三人の中でもっとも長い期間扱われた(1924-40)。反対に、直木の作品は彼の死(1934年2月24日)の直後にまとまって現れている。

 しかし、それほど有名でない作家が掲載されなかったわけではない。一つの例として、ロシア人と日本人を両親にもつ大泉黒石(1894-1957)が1924年には現れていることが上げられる。

 『太陽』『中央公論』『早稲田文学』『文芸倶楽部』その他の広告が掲載されていることから、書籍にくわえて、たくさんの雑誌もまた日本から運ばれ、すくなくとも1919 年には入手可能になっていたことがわかる。ブラジル・日本間の距離にかかわらず−当時は往復に50日も要したのだが−雑誌は出版後、おどろくほど早くブラジルに到着している。書籍とちがい、雑誌の読者像とその数はおぼろげにしか捉えることが出来ない。ブラジルへの移民の総数が17万人にのぼった1935年の新聞記事が、当時の日本語雑誌市場の規模を伝えている。その記事によれば、その8月に初めて1万冊以上の日本語雑誌がブラジルに輸入された。なかでも『キング』(日本で初めて100万部を超えた雑誌)はよく読まれており、全体の35パーセントを占める3500部がこの雑誌であった。次によく読まれたのは日本一ポピュラーな女性雑誌であった『主婦の友』で、1200部を数える。それに対し、当時日本で影響力があった『改造』や『中央公論』はそれぞれ80 部、70部しか同月に輸入されなかった。

 この問題を考慮するときに無視できないのが新聞である。日比嘉高は1913 年のカリフォルニアでは日本帝国内で流通していた膨大な種類の新聞が入手可能(定期購読に限る)であったことを示す広告を見つけた。この広告は、新聞販売を行っていた書店が東京堂のような主要な卸業者と協力関係にあったことを示す。ブラジルでも同様な状況にあったことを想像することができる。

 広告等から得られる情報は、東京発の豊富な印刷物の供給を示す一方で、読者の広がりを明らかにすることはない。幸運なことに、上記の雑誌に関する情報の他に、当時の読書習慣に関する情報がすこし残されている。1939 年の日伯新聞の出版元による本には、サンパウロ内バウル地方の、主要な鉄道(ノロエステとパウリスタ)沿線の11500世帯の読書習慣に関する調査が掲載されている。対象となった世帯はサンパウロ市を含まない農村部であったが、その調査によれば、上記の世帯中1078世帯が子供用雑誌を、1908世帯が女性雑誌を、5967世帯が「男性用」と呼ばれた普通雑誌を、そして10154世帯が新聞を購入している。日本の新聞を読んでいる家庭は非常に少ない、というコメントもついている。読まれていた新聞の多くはブラジルで出版されたものだった。

 ブラジル移民第一世代の間で、読む・書くという行為が生活の中でいかに重要な役割を果たしていたかということは驚くに値する。植民地において日本からの読み物を読んでいたばかりではなく、ブラジル移民によって書かれた作品も積極的に読んでいたのである。今後、この研究をさらに深め、日系ブラジル移民文学を通して「日本近代文学」をとらえなおしたいと考えている。

 この場をお借りして、貴重な資料へのアクセスを可能にしてくださったブラジル日本移民資料館と人文科学研究所、とくに、数々の質問にいつも快く答えてくださった宮尾進様、脇坂勝則様、鈴木正威様、セリア・オイ様とスタッフの皆様への謝意を表したいと思います。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros