「知性人としての教養と讀書」 (1947)【2】
アンドウ ゼンパチ
quarta-feira, 06 de fevereiro de 2008

  1947年1月に発刊された「土曜会」の同人誌「時代」第一号から、アンドウゼンパチの「知性人としての教養と讀書」をそのまま転載する。手書き・謄写版印刷の第一号は80部ほど配布されたとのことだが、現在では非常に希少な資料となっている。その後の日系社会に少なからぬ影響を与えることになる「土曜会」のメンバーが、太平洋戦争終結直後の混乱の中で、いかなる運動を指向していたのか。その思索の一端を理解する手がかりとなろう。本サイトでは4回に分けて掲載する予定である。今回はその第2回。

「知性人としての教養と讀書」 アンドウ ゼンパチ

 (二)

 已に述べたことによって、現代知性人の教養は、あくまでも、理智的な方法によって求められねばならないことが明らかである。即ち、学問、讀書による以外にない。学問・讀書によって理智を増し、知性を高めることが現代知性人としての人間形成の道である。しかし、学問・讀書が教養のためになされる以上、その根底は確固たる世界観・文化的理念が存在しなくてはならぬ。即ち、教養に一定の方向・指導的理念が必要とされる所以である。これなくして、学問・読書[ママ]をなすものは、ひっきょう、知識人たるに止まり、「博学なる趣味人」となるか「教養ある俗物」となるだけだろう。

 又、指導的理念がなくして学問・読書に志すものは、ただ知識の獲得・貯蔵をなすのみで、知識は消化されず、統一されず、結局新らしい価値として外的に働きうるものとならない。しかし、指導的理念といっても、これは當然・文化的・厂史的な理念でなくてはならないのであるから、自己を、ヘーゲル的に言へば、精神を人卋・世界と離れない存在と思惟し、また、世界の意思に常に合致する自己を意識することによって生れる指導的理念でなくてはならない。かくあるためには、指導理念は独断的であってはならず、必然的に科学的たることが要求される。したがって辯證法的に統一された卋界観の確立を必要とするのである。

 こうした理念の下になされない読書は、いかに博覽多読しても、知識は内的に消化不良となり、教養となりきれず、したがって、知識が外部(人生・世界)に対して価値として働きうる機能を失ってしまう。ここにおいて、文化的意義は消滅したものとなる。ヘーゲルが彼の厂史哲学の中で、「世界の偉大なる目的、しかり人類の究極の目的が、実現せられるために必要とする凡ゆる手段は、人間の活動、欲望、関心、及び情熱の内にある。活動的の個人が、その際、自己の特殊な目的を有し、それに関心をもつものでなければ、人間世界には何事も起らない。関心なくしては何ごとも現はれて来ず、情熱なくしては偉大なる何事も生じない。」といったことは、よく引き出される有名な言葉であるが、「自己の特殊な目的」とは、即ち、指導理念に外ならない。「世界の偉大なる目的・意思」に合致する理念であり、「それに関心をもつ」ことは独善的でなく、常に自己を世界進展の焦点におくことである。かくして、知識は目的に死蔵されることから脱して、外的溢出となり、行動となり、情熱となって、世界の偉大なる目的に協力しうる文化値價[二つの文字の間にレ点あり]となりうるのである。故に、知性はかかる理論と実践の辯證法的統一とならなければならない。行動実践から遊離した知識は閑人の蒐集趣味であり、世界の目的・意思を無視しての行動はブルジョア・イデオロギイの妄想である。又、文化理念に逆らっての実践は、いかに情熱を伴うとも、反知性的なファッショ的ファナティズム以外の何ものでもない。

(時代 1: p.23-25, 1947)

つづく


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros