新文化建設の指標
半田知雄
quarta-feira, 27 de fevereiro de 2008

 ここでは、「時代」第1号に掲載された半田知雄の評論文「新文化建設の指標」の前半部分を紹介する。「今日卋界文化の立場から批判してみると、我々のとった態度がいかに党派的であったかが思ひあたるのである。もしこれを止むを得ざる一時的方法であったとすれば、我々は今こそ、眞の日本文化・日本精神を確立するために努力すべきであらうと思ふ」という言葉に、日本の敗戦を起点としながら、あくまで新たな「日本文化」「日本精神」の担い手であろうとする態度の表明を見ることが出来る。

少し大げさであるが、先づ表題をかゝげてから考へてみることにする。まだ細い点[点は旧字体]まで検討してみた訳ではないが、頭にもやもや[もやは略号]してゐるものを整理するつもりで書きたい。

戦争が終ってまだ年月が浅いし、卋界の動向だってはっきりきまってしまったとは云へないから、今考へついたことが必ずしも今後遠い将来まで通用するものかどうか、ここに断言出来ないやうな気がするが、たゞ一つ言へることは、今迄我々が絶対に正しいと思ってゐたことが、案外相対的な眞実性をもった一時代的なものであったり、本当に價値あるものかどうか、とことんまで突き詰めないうちに、党派的な感情から、立派なものであるにちがひないと思ひ、やがて立派なものだと断言してしまったものが、迷雲を取り去られたやうに、眞相を明示した後は、やはりたいしたものではなかったのか、と今更驚くやうな事実が現れかゝったと云ふことである。いはゞ、批判の時代へめぐり合わせたのである。

例へば日本文化を云々するものは十中の八九までが日本精神について語った。しかし、「日本精神」とは何ぞやを論じながら、その精神なるものの意義は極めて漠然としてゐた。そして各自が勝手な解釈を與へながら、あれだ、これだと云ひつゝ遂には神秘的な独断論に陥ちこんで、深く人間精神の偉大さ、廣範さにつき入ることを忘れた傾きがあった。特殊性を強調するあまり一般性をわすれ、比較研究をわすれることが多かった。

それから「日本的なもの」を目指して、より実証的な態度をとったものでも、分析しつゝ遂には分析したまゝで、直しい價値批判を與へずに、日本的なるが價値ありと論断するかたむきがなかったらうか。今日卋界文化の立場から批判してみると、我々のとった態度がいかに党派的であったかが思ひあたるのである。もしこれを止むを得ざる一時的方法であったとすれば、我々は今こそ、眞の日本文化・日本精神を確立するために努力すべきであらうと思ふ。

私はここで新日本文化を云々する前に、一応今までの研究態度及び方法について批判的考察をしてみようと思ふ。もし私の記憶にして間違ひがないならば、近年一般的傾向として日本文化が論じ出されたのは、日本に於ける國粋主義・復古主義の抬頭に伴って起ったものである。そして、その政治的・経済的背景としては、資本主義文明が一応國内的に完成され、それ以上の膨張のためには、より以上の國外資源と市場とが要求された時に初まったもので、國力の推進力となり先進國との対立的武器となったものであった。そして思想的に之が國家的動員を見たのは資本主義的膨張政策に対立して國内に成長しつゝあった共産主義的或は一般の反國粋主義的自由思想に対立して、膨張政策を阻止しようとした思想の克服にあった。かくて國粋主義的傾向は一時的勝利に安定したのであったが、膨張政策の破綻と共に、それに培はれたイデオロギーもまた批判さるべき時代に遭遇したのである。

(時代1, p.31-33)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros