武藤 山治
武藤 山治(むとう・さんじ)
quinta-feira, 04 de agosto de 2011

 マレー半島のゴム植栽の発展につれて、アマゾン地方のゴム景気は昔話となってしまったが、邦人によってもたらされた、二つの特産物、黄麻(ジュート)と黒胡椒(ピメンタ・ド・レイノ)によって、アマゾン流域は、再び、大きくクローズ・アップされるに至った。

 黒胡椒の主産地として有名な、パラー州トメアス(旧称アカラ)植民地は、昭和3年(1928)8月11日に創立された南米拓植株式会社によって開設され、この会社の生みの親は、当時鐘ヶ淵紡績株式会社の社長であった、武藤山治氏であった。

 大正14年(1925)農学士芦沢安平氏(外務省嘱託)は、農業の視察調査を目的として渡伯し、数ヶ月にわたってサンパウロ州を巡歴し、北部諸州は、鐘ヶ淵紡績株式会社のブラジル派遣留学生仲野英雄氏を同伴した。この旅行に際し、駐伯大使田付七太氏は、親日家で、サンパウロ州に於ける日本人の業績をよく知っている、パラー州知事のディオニジオ・ベンテス氏宛の紹介状を芦沢氏に託した。日本人の労資によって、州内富源の開発を熱望するベンテス知事は、芦沢、仲野両氏を遇し、いろいろ便宜を計ったばかりでなく、紹介状に対する返事をかねた5月28日附書面で、日本人移住地を設置するために、50万町歩(Ha)の土地を選定する権利を、向う1ヵ年留保することを、提案してきた。

 この提案に対して、田付大使は大いに食指を動かした。というのは、大使がブラジルに着任して間もなく、ミナス州選出のフィデリス・レイス氏の移民法案(黄色人種入植制限案)が、連邦下院に提出(1923年)され、ブラジル医学士院のミゲール・コート博士一派の、同案賛成決議文の発表等で、大いに苦慮し、わが移民の発展地をサンパウロ州に局限せず、広く諸州に誘入すべきことを、痛感していたからであった。

 田付大使は、アマゾンに深い関心をもっていた野田良治一等書記官(昭和4年【1929】「調査三十年大アマゾニヤ」なる著書を公刊)とはかって、同知事の申出を、幣原外務大臣に移牒した。

 レイス法案で気をくさらせていた日本政府は、この提案に大いに乗気になり、移住の適否や、開拓条件の検討のため、調査団の派遣を計画したが、経費の捻出に困惑し、鐘ヶ淵紡績株式会社の武藤社長に相談した。武藤氏は、前記仲野英雄氏を初め、若柳駒次郎、杉彦熊氏を留学生として、ブラジルに派遣していた程の理解者であったので、早速、株主総会に諮って、8万円を支出して、調査団の成立に協力した。

 この調査団は、鐘紡東京本社工場の福原八郎氏を団長として、大正15年(1926)5月30日ベレンに到着し、二隊に分れて、モジュー河とアカラ河流域を調査し、7月4日、ベレン市でベンテス州統領と再会してアカラ地方50万町歩(Ha)と、州内他の3地方選択の快諾を得た。福原団長は同年の秋、サンパウロ市を経て帰国し、調査報告書を外務省に提出した。「伯国アマゾン河流域植民計画に関する調査報告」がそれで、翌年(1927)9月、外務省通商局から刊行されている。

 この調査に基いて、昭和3年(1928)当時の首相兼外務大臣田中義一氏が、代表的実業家60余人を招待、渋沢栄一氏が12名の実行委員を推薦し、二回の委員会を経て、会社創立発起人が決定した。その顔振れは武藤山治、有馬頼寧、村井保固、野村徳七、平賀敏、橋爪捨三郎、福原八郎、室田義文の諸氏であった。かくて実質的には、鐘ヶ淵紡績株式会社を背景とした資本金1千万円の南米拓植株式会社が、同年8月11日、大阪の中之島公会堂で開催された、創立総会によって誕生し、福原八郎氏が社長に選任された。この南拓創立に際しても、武藤氏は率先して4万5千株を引受け、事業の成立を容易ならしめた。

 昭和3年(1928)8月、帝国ホテルで開かれた福原氏一行の壮行会で、アマゾン開拓を前に意気軒昂だった福原氏が、「5年間以内に、必ずこの仕事を成功させて見せます」と挨拶したのに対し、武藤氏が「これは普通の商事会社の事業とちがって天下の大事業である。すくなくとも自分は20年先を期待している。そんな甘い考えで、この仕事をやって貰っては困る…」と、意外と思われる程激烈な口調で、福原氏をたしなめたといわれている。

 武藤氏は慶応3年(1867)3月1日、尾州海部郡鍋田村の佐野治ヱ門邸(母堂の実家)で生れた。明治14年(1881)慶応義塾に入学、同18年(1885)卒業し、学術研究のため渡米し、同20年(1887)帰朝した。しばらくは、新聞関係の仕事に携っていたが、明治25年(1892)、三井銀行に入り、同27年(1894)4月、鐘ヶ淵紡績株式会社に入社、兵庫支店支配人となった。明治32年(1899)鐘紡の支配人に就任し、同39年(1906)には、鐘紡株を買占めた大株主鈴木久五郎氏と、増資問題で意見が合わず、一時退社したが、同41年(1908)再入社して専務取締役になり、大正10年(1921)7月には社長に就任した。

 実業界で功成り名を遂げた武藤氏は、大正12年(1923)4月23日、政治教育並びに政界革新の目的を以て、大阪に実業同志会を創立し、推されて会長に就任。同13年(1924)5月、鐘紡株主一同の承認を得て、大阪市南区より立候補して、衆議院議員に当選した。続いて昭和3年(1928)5月の総選挙にも再選された。同5年(1930)1月、鐘紡社長を辞任して相談役となった。同年2月の総選挙に出馬、三選されたが、昭和7年(1932)1月、議会解散には、立候補を中止した。かくて、実業界に転身した武藤氏は三転して操觚界に身を投じ、昭和7年(1932)、時事新報社長に就任したが、昭和8年(1933)3月10日、相州鎌倉で凶変に遭って可惜逝去した。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros