本山 彦一
本山 彦一(もとやま・ひこいち)
terça-feira, 06 de setembro de 2011

 朝日新聞より遅くスタートし、立ち遅れの毎日新聞を、朝日新聞と比肩する大新聞にまで盛り上げたのは、社長本山彦一であった。本山氏はたぐいまれな経営者であると共に、情誼に厚く、皇室を尊崇する念が特に深かった。絶えず海外の情勢に気をくばり、年に多くの社員を海外に派遣して、その見聞を広めさせたが、自分は一回も外遊したことがなかった。

「海外の情勢は、自分が外遊 をしなくても、各地の派遣員や、年々の海外派遣員からの報告を聞いておれば、決して時世に遅れることはない。考えること、やりたいことでいつも頭が一杯なんだから、この上外国を見た日にゃ、自分の頭がもたないだろう」とは、その外遊せざるの弁であった。青島に立派な別荘をもっていたが、その別荘すら遂に一度も訪れたことがなかった位である。

 本山氏に派遣されて、最初にブラジルを訪れた毎日新聞の記者は、文人としても有名だった大庭柯公氏で、巡洋艦「生駒」に便乗し、明治43年(1910)6月に、来伯した。

 もともと「生駒」は、この年の5月25日に、ブエノス・アイレスで挙行された、アルゼンチン独立百年祭に参列し、その帰途ブラジルを訪問したのであった。大庭記者の通信は、当時の毎日新聞紙上を飾って好評を博した。柯公全集第4巻17章に「南米の覇者は誰ぞ」以下数頁にわたり、当時の健筆が再録されている。大庭氏は、後、毎日新聞から、読売新聞の主筆となったが、大正の末期にソ連を旅行中、何故か拘束されて、遂に消息を断った。

 大庭氏に次いでブラジルを訪れたのは、浦田芳朗次であった。浦田氏は、大正11年(1922)のブラジル独立百年祭に派遣された、練習艦隊「浅間」「磐手」「出雲」に便乗して、特派された記者であった。

 大正13年(1924)、天皇陛下(昭和天皇)がまだ東宮でおわしましたとき、ご成婚の盛儀が厳かに執り行われた。日本が国威隆々たる頃とて、国を挙げて、御祝い申上げたが、本山氏を社長とする毎日新聞では、前年から東宮御成婚奉祝の記念事業が、いろいろと練られ、結局国家的な行事が二つ取り上げられた。一つは樺太学術調査団の派遣であり、一つは大毎移民団をブラジルに送るという壮挙であった。

 移民の募集事務を、海外興業株式会社に委託し、移民の渡航費の全額を毎日新聞が負担して、1道2府22県から選抜した、移民60家族268人を、大阪商船カナダ丸でブラジルに送った。一行には特派員にして、毎日新聞大阪本社の社会部記者上田正二郎氏が付添い、移民監督には、海外興業株式会社の白鳥尭助氏が当った。この大毎移民は、神戸を大正13年(1924)5月29日に出帆して、ケープタウン廻りで、61日目の8月1日にサントス港に着いた。配耕されたのは、いずれも日本人に馴染の深い、カンブキ、22家族、91人、サン・フィリッペ、5家族、18人、サンタ・オリンピヤ、7家族、45人、トランスヴァール、6家族、22人、ピラジュー、15家族、55人、アニューマンス、3家族、14人、レジストロ植民地、2家族、12人、サンタ・アンナ、1家族、5人、ビリグイ植民地、1家族、6人であった。

 この毎日新聞社の記念事業が政府を刺戟して、同年の臨時議会で初めて予算中に、移植民保護奨励費なる新項目が加えられ、同年9月以降のブラジル行移民に対し、全般的に渡航費全額補助の特典が、附与され、ここに初めて移民の保護奨励が、本格的な軌道に乗ったのであった。こうした意味で大毎移民は、ブラジル移民史上、大エポックを画したというべきである。

 当時、本山氏が本稿の筆者に対して、「93才の高齢で一族40数名と共に、北海道から遥々再移住する、土佐人小笠原吉次翁の、烈々たる気魄を壮として敢えて、ブラジル移民奨励の企画を実行したのである」と語られたことを記憶している。

 3年後の大正15年(1926)に、大毎移民の落付き方を見届け旁々、桑原忠夫記者(筆者)を日本で最初の伯国駐在特派員として、渡伯させた。かくて、大毎移民の渡伯以来、毎日新聞には、ブラジルに対して常に深い関心をもつという、社是とも言うべき空気が漂うようになり、一方在伯邦人も、毎日新聞といえば、ああ、あの移民団をブラジルに送った新聞社かと思うようになったのである。

 本山彦一氏は、嘉永6年(1853)8月10日、熊本県に生れた。明治4年(1871)上京して箕作秋坪氏の三叉学舎で洋学を修め、ついで福沢諭吉氏に師事した。慶応義塾を卒えてから、兵庫県学務課長兼勧業課長、神戸師範兼模範中学校長を経て、明治15年(1882)大阪新報社長となり、翌16年(1883)、編集長として時事新報に入り、後に会計局長に転じた。明治19年(1886)、藤田組総支配人に就任したが、大阪日報が大阪毎日新聞と改題するに際し、その相談役として経営の枢機に参画するに到った。明治36年(1903)51才の時、社長に就任し、同44年(1911)には、東京で最初に発刊された日刊紙東京日日新聞を買収し、毎日電報と合併して、東西に雄飛する基礎を固め、躍進又躍進、世界的な大新聞に発展させることに成功した。その間、山陽鉄道、明治生命保険、南海鉄道の各取締役をつとめ、昭和5年(1930)、貴族院議員に勅選された。昭和3年(1928)武藤山治氏が肝煎となって、南米拓植株式会社が創立された時は、国家的事業なりとして、毎日新聞を挙げてこれを応援し、出資した。昭和7年(1932)12月30日、満洲事変たけなわの頃、大阪府浜寺の自邸で物故した。
  
  大年とともに逝きたる巨人かな     虚子


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros