人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(2)
アンドウ・ゼンパチ
terça-feira, 11 de novembro de 2014

近代移民の社会的性格
『研究レポートI』(1966年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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2.近代移民以前の大陸移住者

 そもそも、新大陸の発見は、予期しなかった偶然によるものであったが、この偶然をもたらした原因は、ペルシャやインド地方のいわゆる東邦物産と、マルコ・ポーロの旅行記で紹介された未知の国、ジパングの黄金を獲得しようという当時商業資本家の烈しい欲望であったことは、いまさらいうまでもないことである。
 それゆえ、コロンブス、カボット、カブラルによって発見された土地に対する最大の期待は、そこに金銀、宝石または東邦物産と同じ香辛料その他の特殊物産があるかどうかということだけであった。だから、新大陸発見後、最初に勇躍して渡ったものは、これらの宝物を目ざした、いわゆるconquistador(征服者)やbandeirante(探検家)たちであった。(3)

 (3)スペイン人は1510年ごろから、金銀を求めて、新大陸各地の探検と征服に勇敢に行動した。そして、バルボアによって、まず太平洋が発見され、さらにメキシコのアステカ王国および南アメリカのインカ帝国の征服に成功した。かくして、16世紀の前半期の間に広大な新大陸の高文明の地域のスペイン領はことごとくconquistadorの手に帰した。またブラジルでは、主としてサンパウロを本拠としたポルトガル植民者が、16世紀中ごろから、17世紀末にミナス・ゼライスに金鉱が発見されるまでの150年間、bandeiraという探検隊を組織して、今日のブラジル全土をくまなく探検して歩いた。bandeiranteはbandeiraを組織し、これを指揮したポルトガル植民者のことである。

 しかし、征服や探検には武装した部隊を組織し、船舶を準えるのに莫大な資金が必要だったから、誰にでもやれることではなかった。これらの隊長となったものは大部分がポルトガルおよびスペインの絶対制樹立後、封建領主の権力が弱体化して宮廷貴族となったものの次、三男や庶子達で、本国では爵位もなく冷飯に甘んじなければならなかった者や、貴族でも地位の低い小貴族などであったが、とにかく、特権階級に属する者であった。彼らは新天地で一旗あげて、富と名誉と社会的地位を得ようという野心にもえて、国王の許可をえて自費で出かけて行ったのだった。そして、これらの隊員に参加したものは、騎士やまじめで勇敢な青年もいたが、本国の社会では容れられなかった者や、無頼の徒のような者もいた。いずれも宝の山を見つけることに生涯をかけた男子たちであった。メキシコやペルー(当時は今日のボリビアも含んでいた)の大銀鉱はこのようなスペイン人によって発見されたのだった。
 その他の地域では、発見後2百年たって、ブラジルに金鉱が発見されるまでは、目ぼしい金銀鉱は見つからなかった。それで、金銀は出なくても、気候や地味が甘蔗栽培に適している土地では、当時ヨーロッパ向け商品として、すばらしい利益の上った砂糖製造が企てられたのだ。スペイン人は西インド諸島で、ポルトガル人はブラジルの北東部の海岸地帯で、大規模のプランテーション式の甘蔗栽培を始めた。しかし、甘蔗が育たない所は、16世紀中は貿易を目的としては利用する方法がなく全く無価値の土地としてほとんど顧みられずに放置されていた。(4)

 (4)砂糖はもともとシリアやエジプト産のものが東邦物産としてヨーロッパへ輸入されていた。それがイタリアのシシリア島で製造されるようになったのは13世紀からであったが、そのころの製造技術はまだ幼稚で生産高が少く、値段も高価で、すこぶる貴重な品であった。それゆえ、アフリカ大陸の北西岸に近いマデイラ島がポルトガル人に発見されると、すぐ、この島でイタリア(ジエノヴア)商人が、ポルトガル王から特許をえて甘蔗を植え砂糖の製造を始めた。そして、黒人奴隷の使用と水車による搾汁法とで、まもなくシシリア島をしのぐ、ヨーロッパ人の最大の生産地となった。砂糖の需要は激増するので、1460年にはアソーレス島で、1490年にはカナリ島でというように、甘蔗栽培の適地が発見されるとすぐ、そこで砂糖が作られた。
 こういう事情だったから、コロンブスが発見した西インド諸島には金銀がないことが分ると、コロンブスは2度目の航海のとき、マデイラ島から持って行った甘蔗の苗をハイチ島に移植し、そこから、1511年にはキューバ島にも移植されて砂糖製造が始まったことは当然なことであった。コロンブスは探検航海に出る以前マデイラ島の砂糖をヨーロッパへ輸送する船長をしていたし、彼の妻は、この島で砂糖農場をもっていた同郷のジエノヴア人の娘であった。
 また、ブラジルでも、西インド諸島よりは少しおくれて、北東部の沿岸地帯に砂糖農場が作られた。


 しかし、銀の採掘も、砂糖の製造も莫大な資金を必要としたし、スペインでも、ポルトガルでも、国王や総督から許可された特権階級のものだけにやれた事業であった。そしてスペイン領ではエンコミエンダencomienda(5)という制度によって、ポルトガル領すなわちブラジルでは、セズマリアsesmaria(6)という制度によって、自費で発見や征服したものに報償として、または国家の功労者への恩賞として、土地の用益権と現住民たるインジオを使役する特権を与えられたので、この恩典をうけたものは、ほとんどが貴族出のものであった。

 (5)エンコミエンダは、土地とそこに住んでいるインジオの用益権で、土地及び、そこに住むインジオを所有する権利ではない。これはスペイン国王が発見、征服の功労者に賦与した特権で、外敵に対する土地の防衛とインジオを保護し教化する義務が負わされた。それゆえ、エンコメンデーロencomendeiro(encomiendaを賦与されたもの)は土地の防衛に必要な武装を備えねばならなかった。その代り、その土地に居住するインジオを奴隷とすることは許されないが、彼らを一定の期間に限って労働に使役することを許された。インジオはスペイン国王の臣民で自由民であると規定されていた。(Astrogildo Rodrigues de Mello, As Encomiendas e A Politica Colonial de Espanha. - Universidade de São Paulo, Faculdade de Filosofia, Ciencia e Letras. Boletim XXXIV)

 (6)セズマリアというのは、開拓の目的で分譲された土地のことである。ポルトガル王はブラジル発見後、トルデジーリャス協定によって、ポルトガルの領土になった地域を15の広大なカピタニアと称する封建領に分けて、この用益権と統治権を貴族または国家功労者に与えた。このカピタニアを授与されたカピタン(長官)は、その土地を直接開拓するものに分譲した。この分譲地がセズマリアである。セズマリアは私有地となったものであるが、セズマリアの面積は、北東部の砂糖地帯では、ふつう数十平方レグアないし百平方レグア(1レグアは約6キロメートル)という広大なものであった。そして砂糖農場の経営には莫大な資金を要したので、これを受けたものは資力のある特権階級のものに限られた。奥地の牧場経営のセズマリアはさらに広大であった。


 そして、銀山でも砂糖農場でも、そこで働いたものは、すべて土着のインジオやアフリカから輸入された黒人であった。黒人は奴隷として、インジオもまた奴隷同様の待遇で使われたもので、銀山や農場の監督や各種の技術職人などを除いて、単なる労働者としてスペインやポルトガルから出かけた者はいなかった。
 大銀鉱が発見されたメキシコにしてもペルーにしても、そこの原住民は、かなり高度の文化をもった社会を構成しており、人口も多かったので、彼らを征服したスペイン人は、銀採掘の労働にエンコミエンダ制によって原住民を安価に使役することができた。しかし、その他の地域の原住民はブラジルを初め、まだ野蛮時代をぬけきらない採取生活という低い文化段階にあった。それゆえ西インド諸島やブラジルの北東部に設けられた砂糖農場では、初めインジオを奴隷として使ったが、規則的な労働に堪えられないために、仕事の能率も上らず、その上、逃亡や死亡が多く、また反抗や暴動もはげしかったため、労働能率の上るアフリカ黒人を奴隷として輸入するようになった。
 また、北アメリカでも、発見直後は、東部は発見者であるイギリス人が占有し、西部は、そこを獲得したスペインのconquistadorが、金銀を目ざして入りこんだが、財宝のない大陸は“無益の土地”として16世紀中は見すてられたままになっていた。
 1584年に、ようやく、有名なウオルター・ローレーが開拓を目的に遠征隊を組織して、今日のノース・カロライナ海岸に上陸した。そして、処女王エリザベスをたたえて、その土地をヴアージニアと名づけたのだが、百人たらずの隊員が、もともと宝の山目あての荒くれ者ばかりで開拓に適した農民でなく、せっかくの企画も失敗に終った。1587年、ローリーはさらに150人の移民(この内17人は女)を送って再び開拓を試みたが、彼らは、それきり連絡をたたれ、全く放棄されたままだったので、4年後に初めて食糧を運んだ船が行ったときには、すでに植民地は跡片もなく消え失せて1名の生存者すら残っていなかったという。
 しかし、ローレーの船にのってアメリカへ行ってきた水夫が“ヴアージニアのインデイアンは黄金で身体を飾っていた”と話したことがロンドンのビヤホールからビヤホールへ伝ってすばらしい評判になった。(H. Loon, The Story of America, P.80)そこで、ローレーが投げだしたヴアージニアに冒険的なロンドンの商人たちが魅せられて、ひと儲けする目的で1606年にロンドン会社というのを組織し、ゼームス一世から開拓の特許状をうけたのだが、その中に“貴金属の鉱山を発見した場合には採鉱額の五分の一を王室に納めること”という規定があった。
 こうして、1607年に、開拓者百名をのせたロンドン会社の3隻の船がヴアージニア州の一地点に到着して、そこに国王の名を記念してゼームス・タウンという開拓基地を設立した。けれども開拓者たちは、そこに定住して農業をやろうなどとは考えてはいなかった。
 ところが、到着した年に開拓者の半数がマラリアで死に、金銀を探すどころか、飢と戦いながら死んだ仲間の墓穴を掘ることだけが仕事のようになってしまった。それでも生き残ったものたちは、苦難の中でやっと立ち上ったのだがあこがれの金銀はかけらもなく、水夫の話のインデイアンが身体を飾っていた黄金というのが、実は黄鉄鉱で値打のないものだと分って落謄のあまり絶望の淵に陥入ったとき、はからずも、彼らを救ったのが、そのころ、ヨーロッパで流行し初めていた喫煙であった。
 そもそも煙草はコロンブスが、新大陸から薬用植物として持帰ったものであった。ところが、ウオーター・ローリーがヴアージニアから持ってきた煙草を自ら吸い、鼻から煙を出して人々を驚かせたという話は有名であるが、彼の宣伝によって人間の魂を恍惚とさせる喫煙は、たちまちイギリスで一般の嗜好となり、ものすごい勢いでヨーロッパ中にひろまっていった。しかし、このころの煙草はスペイン人がキューバから輸入していたものであった。
 そもそも、イギリスの植民地となった北アメリカでは、その土地から何らかの方法で莫大な利益をあげることを目的に組織された会社に、イギリス王室はただ同様で広大な土地を与えたものであった。スペインやポルトガルが王室の功労者や貴族に封土のようにして与えたやり方とは初めからちがっていた。だから、前記のロンドン会社というのも、正しい名はThe Treasurer and Compony of Adventurers and Planters of the City of London for the First Colony of Virginiaといい企業家と開拓者(adventurers and planters)たらんとするものが12ポンド以上を出資して株主になっていた。
 会社は国王から与えられた土地をさらに移住者に譲渡したが、会社も移住者も最初から定着して農業をやる気はなく、あくまでも金銀を探しあてようと企んでいたのだった。ところが、その期待が煙のように消えたとき、別の煙が彼らを救ったのだった。
 喫煙の流行に、いち早く着目したロンドン会社は、さっそく、ヴアージニアの植民者に煙草の栽培をさせて、これをすばらしい輸出品とすることに成功した。これで、ヴアージニアの開拓者たちは、初めて、腰をおちつけて農業に打ちこむ決心ができた。かくして、1619年には、彼らの妻となる女性の一団がイギリスの懲治院(7)から、また農場で働く黒人奴隷20名がアフリカから連れてこられた。黒人奴隷が少数ながら初めて輸入されたことは農場経営がplantationとして発展する第一歩をふみだしたものとして大きな意義がある。しかし、黒人奴隷の補給は18世紀の中ごろまでは不充分であったし、また北米のインデイアンは戦斗的で奴隷としても労働者としても使えなかった。そこで、イギリスにおびただしくいた乞食や浮浪人及び犯罪人を奴隷的な年期奉公労働者として、強制的にアメリカへ送ることが始められた。

 (7)イギリスでは16世紀から17世紀にかけて、おびただしい数にのぼった乞食浮浪人を浮浪罪として罰する“救貧法”というのが、18世紀の初期まで実施されていた。ジエームス一世(1601~1625)の時には、放浪して乞食するものは、浮浪罪として、初犯は6ヵ月、再犯は2ヵ年投獄された。入獄中、矯正のため、しばしば鞭打されたが、矯正の見込のない危険な放浪者は左肩にRの字を烙印されて強制労働を課され、再度乞食中を捕えられると容赦なく死刑にされた。(マルクス、資本論、第7篇、第24章)また、女子や子供たちは“懲治院”に入れて1日14~16時間マニフアクチュアの労働をさせた。

 ヴアージニアへ最初に来た若い女性はこの懲治院から送られたのだが、女たちが来た翌年、1620年には、約100名の少年が年期奉公労働者として、タバコ農場へ送られた。これが、アメリカ開拓史上、白人奴隷として知られている“契約奉公人” "indentured servante"の始まりである。契約奉公人というのは、イギリスからの渡航費を雇主がもつかわりに、4年ないし7年間の契約で農場の労働にただ働きする奴隷であった。
 契約奉公人は、かくして、ロンドンで集められた乞食の子どもや男女の浮浪人が周旋業者と契約書を取りかわして、彼らの手でアメリカへ売られて行くようになった。契約奉公人のなかには犯罪人や死刑をゆるされて送られたものも多かったが、これらの犯罪人はほとんどが、浮浪罪で投獄されたものであった。
 アメリカで労力の需要が盛んになるにつれて、契約奉公人を売ることが儲けのいい商売になり、ロンドンやその他の都市で、乞食や浮浪者をだまして、むりやりに船に乗せて送り出す周旋業者が現われるようになった。この誘拐者は幽霊の悪魔のように人を連れ去ることから"spirit"とよばれていたが、多いときには、1年に1万人もさらわれたことがあるという。
 どんな労働者でも誘拐者の手から安全ではなかった。乞食でさえも、アメリカという恐しい言葉をかわすのを恐れた。両親は家庭から、夫は妻から引きはなされてあたかも死の中に呑みこまれるように永久に消えていった。子供はやくざな父親から、孤児は保護者から、扼介な望ましくない親類縁者はかれらの扶養に疲れはてた家族から買いとられた。(レオ・ヒューバーマン、アメリカ人民の歴史・上、14~15ページ)
 この“spiritは18世紀になっても、なお横行していた。1756年ごろでもロンドン市内はうかつに歩かれなかった。”(アシュトン・産業革命P.119)
 そして“この契約奉公人の輸送は植民地貿易の重要なものになった。”(A.E. Smith, Colonist in Bondage, 1947, P.22)
 契約奉公人は契約によるただ働きの年期を終えると、主人から少額の金、または50エーカーぐらいの小面積の土地を与えられて独立することができた。
 契約奉公人になっても、将来は独立した農民になれるということはイギリスの貧民たちにとって大きな魅力になった。そして次第に自発的に契約奉公人を志願してアメリカへ渡航するものがふえていった。
 また、北アメリカでは農業がやれるということが一獲千金を夢みた山師的な冒険家ではないまじめな堅実な人間で、ヨーロッパでの生活に、不満や不安を感じていたものの心を引きつけた。殊に、政治的な圧迫や、宗教的な迫害に集団的に悩んでいたものたちは、自由の天地を求めてヨーロッパを逃げようという気持になった。そして、最初に逃避したのが1620年に有名なメイフラワー号にのりこんで、アメリカへ渡った102名のピューリタンの一派、カルビン派の新教徒であった。イギリス国王チャールズ一世(ジエームス一世の子、在位1625~49年)は国教のアングリカン教会に反対の立場にあったピューリタンを耳切り、鼻そぎなど残忍な刑罰で圧迫しつづけたのだった。
 彼らも、やはりヴアージニアへ行くつもりでロンドン会社と契約して出帆したのだったが、途中ものすごい暴風雨にあって方向を失い、約ひと月も漂流した後、アメリカ東海岸北部のニュー・イングランドに着いた。しかし、ここはロンドン会社に特許された地域よりもはるかに北方で、会社とは何の関係もなく、彼らにとっては、全くの自由の天地であった。
 しかし、たどり着いた時は12月下旬で厳寒の最中だった。無人の新天地には食べものも充分になく、寒さと壊血病のためにぞくぞく倒れて、その冬の間に仲間は半分にへってしまった。
 惨憺たる苦難を辛じて切りぬけて、歴史的な植民地プリマスが建設されたが、ここは南部のヴアージニアとちがって、有利な輸出品となる煙草の栽培ができなかった。そのことが、必然的に、大規模のプランテーションの経営に向わせずに、トウモロコシ、麦、果樹などを、自給的に栽培する小規模の自営農を発達させることになった。
 本国イギリスではピューリタンに対する圧迫は、その後もますますひどくなった。そして、アメリカ北東部にピューリタンの自由な天地が生れたことが、残酷な圧迫や処刑に苦しめられていたものにとっては憧れの地となり、1630年には約2万人の後続部隊がマサツュセットへ渡航した。
 ところが、イギリスではピューリタンはついにクロムウエルを首謀者として、国王の圧迫に反抗して立ち上り、1649年チャールズ一世を断頭台で処刑にして革命に成功した。このために、形勢逆転して、こんどは王党派、国教会派のもののアメリカへの逃避となった。ピューリタン派が北のマサチュセッツへ渡ったのに対し、王党派は、支持者の多いヴアージニアへ移住していった。“かくて、クロムウエル時代のヴアージニアは、王党派の避難所となった。アンシャン・レジームの支持者たちは続々ヴアージニアへ移住してきた。ワシントン、ランドルフ、メーソン、マデイソン、モンローらの祖先はこのときイギリスから逃れてきたのである。”(世界の歴史、11巻・中央公論社)
 ピューリタン派にせよ、イギリスの国教会派にせよ、またカトリック教徒にせよ、宗教上の圧迫から逃れてアメリカへ渡ったものはほとんど中産階級以上のもので、財産もあり、教養のあるものが多かった。それゆえ、彼らは植民地に到着するとすぐ土地を求めて農場を経営したので農場で働く労力はますます必要になってきた。南部の煙草プランテーションでは、一つの農場でも数十人の労働者を使ったので、黒人奴隷の需要が大きくなったが、北部の小農場では、もっと少数の契約奉公人の方が歓迎された。もっとも、南部でも17世紀中は黒人の輸入が充分でなく、18世紀になるまでは、黒人奴隷よりも、白人奴隷の契約奉公人の方が多かった。そういうわけで、アメリカ独立当時(1775年)でも、人口の約半数に当る200万ぐらいが、契約奉公人およびその子孫であった。(8)

 (8)1790年の第1回国勢調査によるアメリカ合衆の人口は3.929.214で、このうち白人は320万、その他が黒人奴隷であった。

 とにかく18世紀になってからでも、新大陸へ植民しようという人間は少なかった。フランスのインド会社は1718年にミシシッピ河口にヌーヴエン・アルレアン(今のニュー・オルリーンズ)を建設したが、移住者はあまりなく、“人口をふやすために会社は恥ずべき方法をとった。ヌーヴエン・オルレアンに移民するためフランス本国のオルレアンはすっから洗いざらいもって行かれてしまった。いかがわし種類の女たちが警官に拾い集められ、酔わせて船につれこまれた。警官は「娘さん、ミシシッピへ行く気はないかね。お前さんに体重だけの黄金の値打のある亭主を世話してあげる・・・」といった。また戸口に立った二人の女が、通行する兵隊たちに笑いかけると、兵隊の一人が「あすこに美しいミシシッピ嬢がいる」といって、その不幸な女たちを馬車にほうりこんだ”(アンドレーモロワ、アメリカ史・鈴木福一訳)
 スペインおよびポルトガル領のアメリカ植民地では、前述したように、労力は土着のインジオやアフリカ黒奴を使用して間にあっていたので、本国から労働移民を連れてくる必要はなかった。それでもポルトガルでは牢屋がいっぱいになると囚人はブラジルへ送られていた。また女性も、インジオや黒人との雑婚が盛んに行われたため、北アメリカほど不自由はなかったが、それでも初期にはときどき、ポルトガルの孤児院から年ごろの娘たちがブラジルへ送られたことがある。
 このようにして、新大陸南北アメリカは開拓されていったのだが、18世紀を終るころにはいったいどれくらいの移住者があっただろうか。
 新大陸へ最初に移住したスペイン人の数は16世紀中に約8000人くらいだったと推定されている。そして、1740年までに、セビリェから出た数は約15万で、独身者が多く、未婚の女性の単独渡航は禁止されていた。そして、貴族階級のものが非常に多く、18世紀のリーマでは白人の4分の1ないし3分の1は貴族や郷士の出であった。
 ポルトガルでは、ブラジル発見当時の人口は200万たらずだった。インド貿易船にのりくむ者やアフリカ各地の要塞守備隊となって海外に出るものが多く、人口の不足に悩んでアフリカ黒人を奴隷として輸入していたほどであったから、ブラジルへ植民者として移住したものは流刑人や犯罪釈放者が多かった。移住者の数は明らかではないが、1580~90年ごろの旅行者の計算によると、このころのブラジルの人口は、白人が25.000、労役に使われていたインジオが18.000、アフリカ黒人14.000である(Anchieta, Fernão Cardim e Gabriel Soares)。白人25.000の中にはブラジル生れのものも含まれているから、この時までの移住者数はごく僅少であったと思われる。
 ところが、ポルトガルが1580~1640にわたってスペインの合併された間に、スペインの圧制下にあるポルトガルをのがれてブラジルへ渡航するものがふえ、1640年には十万以上の白人がブラジルにいた。(Castro Barreto, Povoamento e Populacao P.77)
 そして、18世紀初頭から初まったミナス・ゼライスの金鉱ブームで、ポルトガル本国はひどい人口不足に悩むほどブラジルへの渡航者が流出したが、それでも、18世紀の終りの人口は白人が100万人、黒人が百数十万人というところだった。(9)

 (9)18世紀までのブラジル人口は、いろいろに計算されていて、どれが実数に近いのか判定しがたい。移住者の数はなおさら判明しない。
 よく引用されるContreira Rodriguesの計算では次の通りになる。
(白人数は移住者とブラジル生れを合わせたものである)
(Roberto Simonsen, Historia Economica do Brasil, II P.51より引用)

155015.000 
157617.100 
1600110.000 {30.000白人
70.000白血人、黒人、インジオ
1660184.000 {74.000白人、インジオ(自由人)
110.000奴隷
1690184.000300.000 
17802.523.000 
17983.250.000 {1.010.000白人
252.000インジオ
406.000自由人
221.000褐色人(奴隷)
1.361.000黒人(奴隷)


 “17世紀および18世紀における北米移住は、主としてイギリス人によって行われ17世紀の中期ごろ、ニュー・イングランドへ約8万、ヴアージニアへも8万、そしてメリーランドへ約2万の移住者が渡航したと推定される。17世紀を通じてイギリス(アイルランドを含む)が新大陸へ渡航した移住者は約25万、また18世紀におけるその移住者は150万であったと推定される。”(Car Saunders, A. M. World Population, 岡崎文規・国際移住問題より)
 この外に北アメリカへはごく少数のオランダ人、フランス人、ドイツ人も出ている。
 この通り、新大陸発見後300年間における移住者は少なかった。しかも自発的に移住したものは、冒険的な企業欲にもえたものや、政治的、宗教的圧迫をのがれて北アメリカの新天地に自由の生活を求めたイギリスの清教徒、ドイツ、スイスの再洗礼教徒やフランスのユグノー教徒などの新教派の人々や、ポルトガルやスペインのユダヤ人に対する宗教裁判を逃れるため表面上カトリックに改宗してブラジルその他へきたものが主であった。ポルトガルやスペインの植民地へはカトリック教徒以外のものの渡航はきびしく禁じられていた。
 そして、強制的には、犯罪者、極貧者、浮浪人などが送られた。この外に、移民という名で呼ばれてはいないが、驚くべきほど大量のアフリカ黒人が奴隷として送りこまれている。新大陸全体へ16~18世紀間に輸送された黒人の数は推定で確実なものではなく、したがっていろいろに計算されているが、“アフリカからアメリカ大陸へ送られた黒人の総数は一千万以上に達する。そして、恐らくその35%が北米合衆国及び英領アンチーリャス諸島へ、さらに35%がスペイン、オランダ、フランス各領のアンチーリャス諸島およびギアナとスペイン領アメリカへ、そして残りの30%がブラジルへ来ただろうと推定される”という計算がある。(Roberto Simonsen, Historia Economica do Brasil I, P.213)少数の白人移民にくらべて何んと驚くべき数ではないか。
 Humboldtは19世紀の初めにアメリカ大陸の各地の黒人は自由人になったものも含めて6.433.000と計算した。


アンチーリャス諸島1,965,000
スペイン領アメリカ387,000
ブラジル1,960,000
アメリカ合衆国1,926,000
ギアナ(英、仏、オランダ)206,000
合   計6,433,000


 労働者として自発的に移住するものが少なかったから奴隷の使用が盛んになったのではあるが、後には労働が奴隷によって全般的に行われるようなところへは、契約奉公人のような半ば奴隷のような身分で働くものもの以外、労働しにヨーロッパから出ていくものはなかった。それにしても、契約奉公人になるような、極貧者や浮浪人が、この時代にたくさんいたということはなぜだろうか。

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