人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(3)
アンドウ・ゼンパチ
sexta-feira, 23 de janeiro de 2015

近代移民の社会的性格
『研究レポートI』(1966年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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3.近代移民のさきがけ

 新大陸の発見は、いろいろな意味で画期的な影響をヨーロッパに与えたが、その一つは、スペイン領アメリカで莫大な金銀とくに、銀が無尽蔵と思われるほどに採掘されたことである。その結果16世紀中ごろからヨーロッパに価格革命とよばれたほどのものすごい物価騰貴を招来した。(10)
 金銀は原住民インジオを奴隷のように酷使して採掘されたので生産費は安かった。それに銀の量は全く莫大であった。この銀がどしどしヨーロッパに流れこんでいったのに、消費生産物の量は少しづつしかふえていかないので物価は上るばかり“16世紀から約一世紀の間に、ヨーロッパ物価水準は少くとも三倍以上に高騰するに至った。因みにこの価格騰貴はヨーロッパ諸国の経済に深刻な影響を与えることになる。”(大塚久雄、近代欧州経済史序説・上ノ一)

 (10) 1545年に当時のペルーのポトシ、Potosi銀山が発見されたが、まもなくメキシコでもサカテカス、Zacatecas、グアナフアト、Guanajuato、などの銀山が開発された。16世紀末には新大陸が当時の世界の金生産額の約6割、銀生産額の約9割を産出し、これらの貴金属がスペインを介してヨーロッパへ流入して価格革命をおこした。

 かくして“1600年の商品価格は1500年の2倍半以上だったが、1700年の商品価格はいっそう高かった。すなわち価格革命が始まった時期の3倍半以上だった。”
 “1495年にはイギリス農民は15週間働けば家族が一年間生活してゆくのに充分な生活資料をえられたが、1610年には、たとえ日曜をのぞく一年中の全週間を通じて働いても、同じ生活資料をかせぎだすことはできなかった!”(レオ・ヒューバーマン、資本主義経済の歩み、岩波新書、小林・雪山訳)そして、生活難は都会の労働者の場合も同じようにきびしくなった。したがって、農民も労働者も生活難を切りぬけるためには、身を粉にして長時間働かねばならなかったが、それでもおいつかぬものは乞食に転落して浮浪人になった。
 レオ・ヒューバーマンは、彼の“資本主義経済の歩み”の中で、“フッガー家(11)の時代は同時に「乞食の時代」だった。16世紀と17世紀の乞食の数は驚くべきものだった。17世紀の30年代には、パリの人口の4分の1は乞食だった。農村地方でも乞食の数は同じくらい多かった。イギリスでも条件は同じように悪かった。オランダは乞食でいっぱいだった。16世紀のスイスでは家々をとりまいたり、組をくんで森や道路をうろつきまわったりする乞食をなくするために、他に手段がなかったので、金持たちは、このようなみじめな故郷を失った人たちを狩りたてるための部隊を組織さえした。”と述べている。

 (11) フッガーは、西南ドイツの豪商で、彼が経営する銀鉱からとった銀で羊毛と香料を取引して巨大な利益をえていた。各国の商人や国王、大諸侯はもとより、法王までも彼から借金をしていたほどであった。“16世紀には何らかの仕方で同世紀の上に投げられているフッガー家の影なしには、どんなチッポケな事件でも進行しなかった。”それゆえ“この時代を国王誰々の治世として示すよりも「フッガー家の時代」として示す歴史上の時代区分の方がはるかに真実に近い”(レオ・ヒューバーマン、資本主義経済の歩み・上・P.139)

 この“乞食の時代”はドイツでは30年戦争(1618~48年)のため、いっそう悲惨な状態にあった。(12)

 (12) 三十年戦争は1618年ボヘミアの新教徒の乱に端を発し、ドイツにおける新旧両教徒の大争乱となった。デンマーク、スエーデン、フランスは新教徒を援けてドイツ皇帝と30年間戦った。この結果、ドイツ国内は荒廃しきってしまった。「数千の放逐された飢えた人々が森の中をさまよい歩き、あたかも骨の上に真黒な黄色い皮をかぶった野獣のようであった。至るところ飢餓、困窮、病気、死。ただ狼のみが繁殖し村々にしのびこみ、棄てられた病人や死人を食いつくした」(ゲルデス、ドイツ農民小史・飯沼二郎訳)
 この戦争でドイツ人口は、1618年に1600万ないし1700万だったのが、戦後たった400万になったといわれている。


 銀の流入によって貨幣の流通が盛んになり、商品経済が急激に発達したので、土地所有者である領主や貴族は、貨幣に対する欲求が強くなって、できるだけ、商品として価値のあるものを栽培させるようになった。
 16世紀から、毛織物の新大陸への輸出が次第に増大して羊毛の値段が高くなってきた。イギリスはもともと羊毛の産地であったが、地主はその土地を農民の自由な耕作にまかせて貢物をとるよりも、羊毛をできるだけ多量にとるために、農場を牧場にして羊を飼う方が、農産物よりも貨幣収入がずっと大きいことに気づいた。そして、耕作地を羊牧場にするために柵をめぐらした。これがイギリスの経済史上有名な“囲込み”といわれるものである。“囲込み”をやらない地主は高率の地代を取りあげるので、生活費の騰貴と高利貸に吸いとられて土地をなげだすものもあった。
 “先祖代々その土地に定住していた農民たちは、こうして、むりやりに追いたてられ、あまつさえ、こうして出来上った広大な牧場は僅かな人数の羊飼を賃金労働者として雇用すればたりたため、彼らは永住の地から全くの浮浪者となってさまよい出ざるをえなくなった。このようにして、イギリス経済史上忘れることのできないあの大規模にして悲惨をきわめた“農民の流離” rural exodusが現出するにいたったのである。“(大塚久雄 “近代欧州経済史” 上ノ二)
 こうして生産手段を失った農民は、もはや農村で生活してゆけず、職を求めて都市に流れ出て一部のものは織物工場やその他のマニュフアクチュア(13)で賃労働者になったが、マニュフアクチュアはヨーロッパでいちばん発展していたけれども農村から流れ出るものを全部吸収することはとうていできず、仕事にありつけないものは浮浪人、乞食、盗人などに転落せざるをえなかった。

 (13) マニュフアクチュア 工場制手工場ともいわれるもので、初期資本主義の産業経済様式である。家内工業では熟練した技術をもつ徒弟職人によって製造の全過程をひとりで行ったが、マニュフアクチュアでは、十数人あるいは20~30人もの賃金労働者の“分業による協業”によって、労働の社会的生産力を大きく発展させた。すなわち、マニュフアクチュア的分業によって、手工業的活動が分解され、労働要具が特殊化された。しかし、マニュフアクチュアは道具を使用する手工業生産であるために、労働者に多かれ少かれ技術的熟練が要求された。イギリスでは16世紀の中葉から産業革命の始まる18世紀の70年代までがマニュフアクチュア時代であった。
 また、イギリスには救貧を目的とした国立、王立のマニュフアクチュアが各地にあった。そこでは数百人、数千人という多数の浮浪人や孤児を檻禁して主に織物の製造が行なわれていた。


 この“囲込み”は、年を追ってイギリ中に広まっていったが、18世紀から19世紀にかけては、法令によって農民の立退きを合法化して農民の追出はいっそう盛んに行われた。17~18世紀に北アメリカへ強制的に、あるいは誘拐して連れて行かれて契約奉公人に売られた極貧者は、こういう事情でイギリスの都市に充満していたのだ。
 この“囲込み”は、羊の牧場をつくるためばかりではなく、18世紀になって、穀物の需要が人口の増加と輸出の激増のために有利な商品になると、領主や地主は、いちおう自己の土地から農民を追い出して、低賃金の労働者を使用する資本主義的経営の農場に切りかえてしまった。
 こうして、イギリスでは農業の封建的な経営が崩れて資本主義的な経営に次第に発展していく過程で農民層の分解が完全に行われて「1750年ごろにはヨーマンリイ(14)が消滅し、18世紀の最後の数十年間には農耕民の共同地の最後の痕跡もなくなった。」(マルクス、資本論、第24章、P.1105、長谷部訳)

 (14) ヨーマンリ イギリスの独立自営農民をいう。イギリスでは農奴は15世紀中ごろにはほとんど消滅して、多くの農民は自作または、比較的軽微な金納地代を支払うにすぎないヨーマンリ(独立自営農民)に転化をとげていた。

 また、農村人口の激減は農村で生活していた半農半工の手工業職人をも失業させて、農村から都市へ追いたてることになったが、かれらの多くは、都市のマニュフアクチュアで賃金労働者となるよりも、むしろ北アメリカへ渡って、新天地で独立した職人となる方を望んだ。だから、旅費が工面できるものは、自由移民として移住したが、旅費ができないものは、自発的に契約奉公移民となるものが多かった。たとえ、契約奉公人になっても、数ヵ年の契約期間を終えれば独立できるという希望がもてた。
 このような失業職人をたくさんのせた移民船がアメリカの港へつくと、移民周旋業者または船長は、彼らを必要とする者に、船賃を支払わせて売り渡すために、広告を新聞に出したものである。
 フイラデルフイアで出されていた「アメリカン・ウイークリー・マーキュリー」の1728年11月7日号には次のような広告があった。
 「ただいま、ロンドンからボーデン号とウイリアム・ハーバート号とコマンダー号で、百姓や建具屋や靴工や織物工や鍛冶工や煉瓦積工や煉瓦焼工や木びきや仕立工やコルセット製造工や肉屋や椅子製造工やその他各種の職人をふくむ奉公人にはあつらえむきの若者の一団が到着した。フイラデルフイアのエドワード・ホーンはこれらの若者を現金か小麦粉とひきかえに適当な値段で売却するはず」(レオ・ヒューバーマン、アメリカ人民の歴史・上、P、5)
 以上述べたような封建制から資本主義への移行期における農民没落の現象は、世界でイギリスがもっとも早く、しかも、15世紀後半から18世紀にかけて300年もの長い期間にわたって徹底的に行なわれたのである。
 イギリスの状態がこのようなときに、アイルランドでは1845年から3年間、大飢饉に襲われて、そのころ800万の人口であったが飢餓と疾病で死亡したものが150万もあった。これが有名なジャガイモ飢饉である。
 そもそもアイルランドはイギリスの植民地であって、土地の80%をイギリス人の不在地主によって所有され、多額の小作料をとられた上、工業の発展をおさえられていたために、住民の大部分が貧民でジャガイモを常食とし泥づくりの粗末な家に住んでいた。そのジャガイモが病気にかかって飢饉になったのである。
 その結果、難民はどしどしイギリスへ移住した。アイルランドはその前にも1782~84年および1821~23年の飢饉で多数の難民がイギリスに逃れた。これらは、低賃金で、1日の労働時間15~6時間というマニュフアクチュアへ吸収されたが、仕事にあぶれたものは乞食、浮浪者、アメリカ行の契約奉公移民になった。そのため、イングランドやスコットランドでは、土地を失った多数の農民は都市へ出ても工場労働者は低賃金に甘んじるアイルランド人に占められて働き口がなく、アメリカ行の移民の群に投じた。1851年からイギリスからアメリカへの移住は激増し、毎年10万をこえた。
 そして、1870年から始まった産業革命によって、新発明の機械を採用した工場制工業が現われると、道具を使っていたマニュフアクチュアはひとたまりもなく圧しつぶされてしまった。マニュフアクチュアの経営者には熟練工である“親方”とよばれた職人がたくさんいたが、これらの親方や職人の中には熟練を必要としない、女子供でもやれる機械制工場の賃金労働者になりさがることを好まず、アメリカへの移住をえらんだものが多かった。それで、産業革命後には、貧窮者の契約奉公移民の外に、多少資金をもち、新天地で独立して再起する目的をもった自由移民もかなり出るようになった。
 17世紀中は、イギリス(アイルランドを含む)から新大陸へ渡航した移住者はわずかに25万くらいであったが、18世紀には推定150万(うち55万人がアイルランドから)に達する移民が出て行った。
 これらの北アメリカへ渡った技術をもった職人や親方たちの大部分は奴隷制度のプランテーションで栄えていた南部をさけて、はやくから民主主義的な社会が発達した北部のニュー・イングランドへ主として落ちついた。そのためにこの地方でははやくから手工業が発生し、18世紀の20年代には造船業が、30年代以後には醸造業が繁栄した。そして植民地時代の終りには製鉄業、羊毛業等のマニュフアクチュアが発生した。(宮川実、社会発達史・P.160)

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros