ブラジルにおける日系農業史研究:「ブラジルのジュート栽培―日本人のはたした役割―」(1)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
segunda-feira, 27 de junho de 2016

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1 長繊維ジュートをえるまでの経緯

1-1 繊維植物としてのジュート
 ジュートはアオイ科ツナソ属の一年生草本で、学名はコルコラス・カプスラリス (Corchorus capsularis) 。和名はツナソ(綱麻)。英名ホワイトジュート (White jute) 。日本では一般に、中国名の黄麻(こうま)で知られていたが、1910 年代になって製麻工業の発達とともに、工業界では英語のジュート (Jute) を使用するようになった。なお、同属異種にシマツナソ (Corchorus olitorius) がある。英名ジューズマロウ (Jew's marrow) といい、同じく繊維を利用するが、ツナソよりも短いため品質はおとる。シマツナソの若葉は、近年、モロヘイヤ(アラビア語)の名で食用されるようになった。
 ジュートの原産地は中国南部と推定されている。インドから東南アジアにかけての熱帯および亜熱帯に自生。経済目的で利用される長繊維ジュートは、インドで作出され、18 世紀以来、ベンガル州およびアッサム州(現バングラデシュ)が世界の主産地となった。とくに、ブラマプトラ川 (Bramaputora River) 下流域では良質の繊維が採取される。
 ジュートの生育途上で、栄養生長から生殖生長へ移行しはじめたころ(花蕾が開きはじめるころ)茎を根元から切断し収穫。外皮の繊維をとりだし乾燥させたものが、原料ジュートとして取引される。繊維が長いほど商品価値は高い。しかし、植物繊維は一般に草本の茎または葉から抽出される(ワタやカポックのように果実から採取するものは少ない)。したがって、数十センチメートルから 2 メートルまでの繊維が多いなか、ジュートだけは栽培品種によって 4 メートルないし 5 メートルにたっする。
 長繊維ジュートは用途もひろく、取引市場で重視される。インドでは衣服、敷物、袋などに利用してきた。ショッピングバッグ(最近はエコバッグとも呼ばれる)、手芸品、テーブルクロス、婦人用カジュアルシューズといった用途もある。今日では、ヘッシャンクロス[注 1]の形で、ブーツ、ソファーの内張、水道管やガス管の被覆などに使われることが多い。
 袋加工したジュート製品は、穀物やコーヒー取引の容器となる。この麻袋にポリエチレンをコーティングしたものは、セメントや鉱石類の容器としても使用。ブラジルがジュート繊維を必要としたのも、輸出用コーヒーの袋をつくるためだった。トウモロコシ、コムギ、コメ、ダイズ、綿実なども、バラ積みしない場合の取引では、ジュート袋(通常は正味 60 kg )を使用。ただし、1970 年代以降はプラスチック袋が普及されたため、ジュート袋の必要性は失われた。
 ジュートの代替品がなかったわけではない。ブラジルにはジュート繊維に代わる原料植物が数十種類自生している。たいがいの用途について代替可能であるが、輸出用コーヒー袋だけは、輸入国側が認めなかった。同じジュートでも、短繊維を使った袋も認めなかったほどである。強度に欠陥があったからで、この問題は合成繊維の開発と技術改良によって解決された。ブラジルでは、穀物やコーヒー用の袋材として、18 世紀以来、ウアイシマ[注 2]を使ってきた。
 サン・パウロ州では、東部のパライーバ・ド・スル川沿岸地帯に自生していた。1890 年代末になってウアイシマの栽培がはじまるとともに、サン・パウロ市でも製麻工場が建設される。20 世紀に入り、サン・パウロ州がコーヒーのみならず、穀類の産地として発展したのにともない、製麻工業も成長していく。1940 年ころには十数社をかぞえ、輸出用コーヒー袋の製造はタウバテー地方に集中した。
[注 1] ヘッシャンクロス (Hessian cloth) はジュート織布に植物油を浸潤させたもので、強度と保存性が高まる。アメリカ独立戦争のとき、イギリス軍に雇用されたドイツ兵(エッセン地方出身者)が、この織布で内張したブーツ(軍用長靴)を使用。膝のところに飾り房をつけたことから注目され、イギリスで大流行した。ヘンッシャンブーツと呼ばれるものである。その後、さまざまな改良をへて、今日なおブーツ用の需要は多い。ヘッシャンクロスにコールタールをふくませたものは、水道管やガス管の被覆に使用。鋼管の腐食をふせぐほか、凍結防止効果もある。寒冷地では、ヘッシャンクロスの織布(またはムシロ)を庭木の幹に巻きつけ、積雪で埋もれた樹皮および皮下組織の凍結防止をはかる。

[注 2] ウアイシマ (Uaicima) は別名マルヴァ・ヴェルード (Malva-veludo) 、マルヴァ・ローザ (Malva-rosa) 。アオイ科のパヴォニア属をいう。同属異種はいくつかあり、ブラジル北部から大西洋沿岸の高温多湿地帯に自生する。アマゾンで普遍的なのはマラコフィラ種 (Pavonia malacophylla Gürke) 。草丈 1 m ないし 4 m で外観はジュートに似ている(ただし 3 メートルをこえる個体はめったに見られない)。サン・パウロの製麻会社は、この繊維を原料に麻袋をつくり、国内向けコーヒーやトウモロコシ、インゲンなどに使っていた。


1-2 ジュート栽培の試み
 輸出用コーヒーに、ジュート袋を使うようになったのは 19 世紀後半のことである。ブラジルのコーヒー生産は 1850 年代に急増し、金額で砂糖を抜いて輸出品目の首位を占めるにいたった。以後、1960 年ころまで、ざっと 1 世紀にわたりコーヒー時代がつづく。とうぜん、麻袋の需要も増大。これに目をつけたイギリスが、麻袋の材料としてジュートを売りこんだ。良質の長繊維ジュートは、インドでしか産出できず、イギリスがコントロールしていた。イギリスの商人にとって、輸出用産品の麻袋は、ジュート需要を拡大させる格好のターゲットと見られたわけである。
 こうしてブラジルも、1870 年代からジュート袋を試用しはじめ、1880 年代には輸出用コーヒーのすべてに適用した。だが、ジュート繊維の供給はイギリスの独占事業である。イギリスの商人が一方的に価格を設定するため、ブラジルのコーヒー輸出業者にとってコスト高となったのはいうまでもない。とうぜん、ジュートの国産化が議論される。種子はイギリスがおさえ、産地(インドのベンガル州、アッサム州)から域外への持ち出しを禁じているので、たとえうまく持ち出せたとしても、長繊維ジュートの栽培はむずかしい[注 3]。
 したがって、19 世紀における試験栽培は話だけで終わった。だが、1890 年代にサン・パウロ州でジュート工業が勃興すると、材料コストを低減させるため、ジュートの国産化を考えるようになった。それには、インドから良質繊維を生産する種子をとりよせねばならない。種子の調達はむずかしい問題だった。それでも、最初の試作は 1902 年になされたとつたえられる[注 4]。
 この試験栽培について詳細は伝わっていない。わかっているのは、「草丈が低いままで栄養生長から生殖生長へ移行したため、短繊維しか抽出できなかった」ということ。いったん栽培は中断されたが、ヴィヴァルド・パルマ・リマ (Vivaldo Palma Lima) によると、サン・パウロ州の製麻工業が 1920 年にインドから種子をとりよせ、ふたたび試み「好結果をえた」という[注 5]。
 リマがいう「好結果」とはいかなるものか、内容はよくわからない。当時のブラジルでインドなみの長繊維をえたという記録はみあたらない。おそらく、「発芽率がよかった」ということ、そして「草丈 2 メートルくらいまで伸びた」という点を指すのであろう。あるいは、インド種のうち短繊維品種だった可能性も否定できない。いずれにせよ、商品価値のある長繊維を採取できなかったという点で、ジュート試作は失敗したと判断された。このあと、ブラジルの製麻業界では、試験栽培を放棄したようである。
[注 3] ジュートは熱帯の多雨型気候帯に適する作物だが、夏期に高温(日中の最高気温が 30 ℃以上)なら、温帯でも栽培できる。中国では江蘇省が主産地のひとつとされ、日本でも熊本県や静岡県で試作されたことがある。サン・パウロ州で試作した事例にてらし、赤道を中心に北緯 25 度から南緯 25 度の範囲で栽培が可能とみられる。つまり、高温多湿の気候条件がふさわしい。しかし、あくまでもジュート (Corchorus spp.) と呼ばれる植物の栽培が可能ということであって、良質の繊維を生産できるかどうかは別問題。19 世紀にセイロン島やインドネシア、インドシナ半島、台湾島などでも栽培されたが、いずれも短繊維しか抽出できなかった。長さが 3.50 メートル以上の繊維は、ガンジス河口のデルタ地帯とプラマプトラ下流域でしか生産できなかったのである。

[注 4] 本間アルフレッド (Embrapa Amazônia Oriental) が引用したグラナットの記述はつぎのようである。
...... Desde o início deste século foram realizadas várias tentativas de introdução da juta no Brasil. As primeiras experiências foram realizadas no Estado de São Paulo, em 1902, com vistas a atender a demanda de sacaria para as exportações de café (GRANATO, 1923)...... [GRANATO, L.; "A cultura da juta em São Paulo" (Secretaria de Agricultura, Commércio e Obras Públicas do Estado de São Paulo, São Paulo - SP, 1923): IN.: HOMMA "Amazônia", p. 34] [‥‥‥ブラジルでは今世紀[訳注= 20 世紀]初めより、ジュート導入のためいろいろな試みがなされた。輸出用コーヒーの麻袋需要をまかなうためであり、最初の試みは 1902 年にサン・パウロ州でおこなわれた‥‥‥]。
 長繊維ジュートの産地はインド(ベンガル州およびアッサム州)だけである。インド植民地の宗主国であるイギリスは、「産地独占」のため種子の輸出を禁止した。同じインド内であっても、産地外への持ちだしも禁じたため、通常の取引による入手は不可能。かんたんに取引できたのは、短繊維品種だけだった。上記「 1902 年の試作」で試用した種子が、どういう経路で調達されたのかは不明。不正手段で産地からもちだされたことは、想像にかたくない。種子の輸出禁止については、かつて、ブラジル帝国政府が、アマゾン産パラゴムノキ (Hevea brasiliensis (Willd. ex Juss.) Muell. Arg.) について実施したことがある。この禁止令は、1876 年、イギリスのプラントハンター、ヘンリー・ウィッカム (Henry Wickham) によっておかされた(ベレン港の税関吏を買収した模様)。サンタレン地方で採取したパラゴムノキ種子、7 万粒を本国へもちかえり、ロンドンのキュー王室植物園で播種。発芽した 2,700 粒をもとに増殖しながら苗木をつくった。これらの苗を出発点に試験栽培をくりかえし、1890 年代にはいって大規模プランテーションに成功。イギリス植民地であるコロンボ(セイロン島)、シンガポール、マレーシアでゴムの産地が形成された。その結果、20 世紀にはいると、東南アジア一帯にゴム栽培が普及。生産コストと輸送コストの低減により、イギリスは安価なゴムを生産できるようになった。イギリスが世界市場へ売りまくった結果、1910 年代をつうじてアマゾンのゴム産業は急速に凋落していく。アマゾンにおけるジュート栽培の成功は、ブラジルがイギリスに対し「ゴムの敵(かたき)討ちをした」という見方もある。ただし、ジュート種子を盗みだし、アマゾンにおける栽培を成功させたのは、ブラジル人ではなく日本人だった。ブラジル国家に対する、日本人の「隠れた功績」といってよい。

[注 5] ヴィヴァルド・パルマ・リマ (Vivaldo Palma Lima) はアマゾナス州マナウス市在住の親日家。1931 年以来、アマゾニア産業研究所に協力してきた。1937 年、Ciasa - Companhia Industrial Amazonense S. A. (アマゾニア産業株式会社ブラジル支社)の現地顧問。1940 年、同社取締役。1941 年、同社専務取締役。1938 年、Ciasa がジュートの本格的栽培をはじめたとき、ジュート栽培に関する著書 [LIMA, Vivaldo Palma; "A Juta: como riqueza econômica da Amazônia", (editado por autor), Manaus - AM, 1938] を自費出版する。同書のなかでつぎのように記述。
...... Foi no Estado de São Paulo, grande consumidor dessa fibra para a saccaria do café, que se fizeram as primeiras tentativas para a acclimatação da juta no Brasil. Embarcando o sr. Antonio da Silva Neves para a India, em 1920, de lá remetteu varias toneladas de sementes de typos diversos. As experiencias de plantio foram realizadas nas margens do rio Paraná, em São Paulo, com um bom resultado apparente primitivo, por germinação das sementes, tendo porém, fracassado a continuação da cultura, talvez por imperícia ou por falta de perseverança dos plantadores ...... [Vivaldo Lima; "A Juta: como riqueza econômica da amazônia", p. 6]. [‥‥‥コーヒー袋用原料としてジュート繊維を大量に消費するサン・パウロ州では、この作物がブラジルの風土になじむよう最初の試作がおこなわれた。1920 年にインドを訪れたアントニオ・ダ・シルヴァ・ネーヴェス氏は、さまざまなタイプの種子を何トンも送りつけた。サン・パウロ州のパラナ川沿岸で試作したところ、種子の発芽はよく、原産地と同じような好結果をえたが、継続栽培をせずに終わった。おそらく、栽培技術に問題があったか、辛抱がたりなかったからであろう‥‥‥]
 リマは「パラナ川沿岸で試作」とするが、正確な場所はわからない。辻小太郎「ブラジルの同胞を訪ねて」も場所を明記していないが、アルタ・ソロカバナ地方と解釈されるような記述である。したがって、パラナパネマ川沿岸とも推測されるがうたがわしい。当時の製麻会社は、サン・パウロ市のほかタウバテー地方にあった。カサパーヴァからピンダモニャンガーバにかけて、パライーバ・ド・スル川沿岸ではウアイシマの栽培もおこなわれていた。ジュート試作にあたり、この方面がまっさきに候補地としてあげられたはず。パラナ川もパラナパネマ川も、工場所在地からは遠すぎる。


1-3 辻小太郎のアイデア
 長繊維品種の導入について、アマゾニア産業研究所[注 6]の上塚司理事長が企図し実行したとされる。だが、「アマゾンにおけるジュート栽培」を最初に提案したのは、上塚司ではなく辻小太郎だった。上塚は神戸高等商業学校第 6 期生。辻は第 21 期生であるから、ふたりは先輩後輩の関係がある。たがいに面識はない。それが、1928 年半ば、辻のブラジル視察旅行[注 7]を契機に接触がはじまった。
 1928 年当時、上塚司は衆議院議員に再選され多忙となったが、それまでにブラジルの一般事情をかなり調べていた。前年末に「山西・粟津コンセッション契約」の権利を継承[注 8]。アマゾン開拓にむけ、現地事情の調査研究をはじめたところでもある。そこへ、辻小太郎がたずねてくる。辻は、アマゾンにおけるジュート栽培に関心があり、成功の可能性を熱心に説く。神戸高等商業学校在学中、小泉製麻の重役と懇意にしていたことから、日本における製麻工業事情や、原料ジュートについての知識をえた。当時、良質の長繊維ジュートは、インドでしか生産されていない。インドはイギリスの植民地であり、イギリスの商人が価格をコントロールしていた。日本は高価な原料繊維の輸入をしいられていたわけで、別の産地ができればイギリスの経済暴力から解放される。ただし、日本の製麻業者は、「インドだけが産地」という先入観にとらわれていたため、ほかの新産地を考えようとはしなかった。
 アマゾンは、ガンジス川 (Ganges River) の河口付近と土地気候条件が似ている。広大な未開地がひろがっていることから、アマゾンでジュートを栽培すれば、日本の製麻工業に役立つであろう。シロウトの単純な発想にすぎないが、辻はそう確信し、アマゾン現地の事情を調査することにした。この件を上塚に説明。上塚も辻の発想に共鳴し、自分がこれから着手するアマゾン開拓事業に、ジュートをとりいれようと考えた。
 ふたりの話し合いが、アマゾンにおけるジュート栽培のきっかけとなり、最終的に実現されたわけである。とりあえず、辻は視察旅行に出発。サン・パウロ州ビリグイ市で知り合った山内登(やまのうち・のぼる、東京植民学校卒業生、同校では「校友」と呼ぶ)とともにマナウスへいく。山内は東京植民学校(校長=崎山比佐衛)のアマゾン分校を開設するため、先発隊のひとりとしてマウエス市へむかう。マナウスでわかれるとき、辻はジュート試作を依頼した。いったんサン・パウロ市へもどり、種子を調達してアマゾナス州農務局マナウス農事研究所へ送付。その一部をマウエスの山内へ転送してもらった。
 マナウスの試験農場とマウエスで、ほぼ同時期( 1930 年初め)にジュート種子を播種。しかし、どちらも草丈が低いまま開花し、長繊維ジュートを収穫できなかった。それぞれ、どのような条件で栽培したのかは不明。山内書簡(山内登より辻小太郎あて書簡、1930 年 3 月投函)には、「失敗だった」としか書かれていない。
 このときの種子がどこからきたのか、入手経路は不明。辻は在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部へ依頼したのではなかろうか。そうだとするなら、サン・パウロ州タウバテー地方の短繊維品種だった可能性もある。それはともあれ、アマゾン地方における最初のジュート栽培だったことはまちがいない。
 このあと、本格的な試験栽培は、上塚司によって企画される。上塚もまた、みずからアマゾンの現地事情を調査( 1930 年 9 月~ 10 月)。アマゾナス州パリンチンス市に本拠とすべき土地を購入。1930 年 10 月 21 日をもって開拓事業に着手した。その日、名目だけではあるが「アマゾニア産業研究所」を開設。この名で開拓本部の建設をはじめた。研究所の所長は上塚司で、現地責任者は粟津金六副所長。本拠地の名はヴィラ・バチスタ(バチスタ農場本部)と呼ばれていたが、これをヴィラ・アマゾニア (Vila Amazônia) と改称する。
 アマゾン調査のためサン・パウロ市から出発するとき、上塚はジュート種子を用意していた。在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部が入手したサン・パウロ種である。それとは別に、帰国した上塚が日本でも種子を調達( 1931 年 6 月にヴィラ・アマゾニアへとどく)。これら 2 種類の種子を受領した粟津副所長も亀井満農事部長も、ジュートに対する関心はほとんどない。そのまま放置した。
[注 6] アマゾニア産業研究所 (Instituto Amazônia) は、上塚司が設立した民間団体。アマゾン開拓事業の実施にあたり、暫定措置として個人事業の形で実行するため、1930 年 10 月 21 日に開設。開拓本拠地であるヴィラ・バチスタ(アマゾナス州パリンチンス市、旧バチスタ農場)で、最初の斧をふりおろす儀式(斧下式)を挙行するに先立ち、「アマゾニア産業研究所」と墨書した 40 センチ角の杭を立てた。これを「立柱式」と称し、地名を「インスチチュート・アマゾニア」と改称。アマゾニア産業研究所の発祥とする。しかし、「研究所の名をそのまま地名にするのはよくない」との異議がでたため、同年 11 月末、「ヴィラ・アマゾニア」 (Vila Amazônia) と改めた。ただし、その時点ではまだ名目だけのものにすぎない。1931 年 3 月 5 日に東京へもどった上塚司は、アマゾニア産業研究所事務所を開設(日付不明なるも下旬と推測される)。とりあえず、山西源三郎事務所へ仮寓(同年 8 月に大阪商船ビルの 1 室を賃借し移転)。実務上は、これをもってアマゾニア産業研究所の発足とする。しかし、登記団体ではないため、上塚司の個人事業を遂行する名目団体であることには変わりない。ヴィラ・アマゾニアの建設と立柱式については、「アマゾニア産業研究所月報」第 1 号(1931 年 8 月号)、第 5 号(1931 年 12 月号)、第 6 号(1932 年 1 月号)、第 13 号(1932 年 8 月号)、第 18 号(1933 年 1 月号)、第 51 号(1935 年 10 月号)、第 111 号(1940 年 10 月号)、第 114 号(1941 年 1 月号)に、それぞれ断片的な記述がある。ほかに、当日撮影した 16 ミリフィルム(無声映画)があり、式典と「斧入れ」の様子を見ることができる。このフィルムは「大アマゾンを拓く」と題するシリーズ(全 5 巻)の最終巻(約 15 分)。原フィルムは東京在住の上塚芳郎氏(上塚司直系の孫)が所蔵。第 5 巻の複製はパリンチンス市役所が所蔵。アマゾニア産業研究所の事績を紹介するフィルムはほかにも数十本ある。2008 年、画質が比較的良好なものをえらび、デジタル画像に変換。一括して、DVD の形で保存されている(複製のひとつは国立国会図書館が所蔵)。

[注 7] 辻は 1928 年 7 月 25 日に神戸港から出立し、1930 年 1 月 24 日に横浜港へ帰着。 このブラジル視察旅行は、文部省派遣「実業練習生」という形で実現した。神戸高等商業学校( 1929 年、国立大学に昇格し神戸商業大学と改称)在学中、南米同志会のサークル活動で、ブラジルについて研究熱心だった辻に、田崎慎治校長が目をかけた。1927 年 3 月に卒業すると、田崎校長の世話で日伯協会(本部=神戸市)へ就職。本来なら川崎製鉄、神戸製鋼所、兼松、日本毛織物など大企業に就職するはずのところ、ブラジル視察を計画し予備知識をえるため日伯協会の事務員となった。田崎校長( 1929 年、神戸商業大学学長、1933 年よりアマゾニア産業研究所理事)は辻を名目上、「神戸高等商業学校非常勤講師」とした。この資格により文部省へブラジルむけ実業練習生として応募。田崎の政治工作により「 1928 年度派遣練習生」として認可された。視察旅行の結果については、帰国後に刊行した「ブラジルの同胞を訪ねて」(日伯協会発行、1930 年 5 月 20 日)参照。

[注 8] 「山西・粟津コンセッション契約」は、山西源三郎(東京在住の実業家)と粟津金六(サン・パウロ州リンス市在住、不動産業兼法律コンサルタント、神戸高等商業学校第 8 期生)が、1927 年 3 月 11 日にアマゾナス州政府との間でかわした、「州有地 100 万ヘクタール無償譲渡に関するオプション契約」をいう。契約日から 2 年以内に拓植会社(ブラジル法人)を設立し、経済開発事業に着手する場合、100 万ヘクタールの未開地を無償で譲渡するというもの。期限内に拓植会社が設立されなければ失効する。契約書を手に山西が日本へもどったとき、昭和金融恐慌( 1927 年 3 月~ 4 月)のため経済界は混乱。山西建設(取締役社長=山西源三郎)も工事費を回収できず、まもなく倒産した。ほかに資金提供者はおらず、拓植会社設立のめどがたたなかった。山西建設の利益をアマゾン開拓に投入するつもりだったが、肝心の本体倒産となれば、事業そのものを断念せざるをえない。こうして、山西源三郎は、粟津金六の同意をえたうえで、コンセッション契約を上塚司に譲渡(日付不明なるも 1927 年 11 月または 12 月と推測される)。以後、この契約にかかわるアマゾン開拓事業は上塚の仕事になる。


1-4 荒木衛門による試験栽培
 ヴィラ・アマゾニアにおけるジュート栽培は、荒木衛門[注 9]の到着まで待たねばならない。その少し前、1931 年 6 月 20 日に第 1 回実業練習生[注 10]の一行がやってきた。上塚は一行の携行荷物としてジュート種子を託している。日本のどこで調達したかは不明。後年、荒木は「静岡産だった」と述べている。数量については越知栄(種子携行の責任者)が「 10 kg 」と記述 [Jornal "A Vanguarda", em 9 de julho de 1947, 4 p.] 。
 荒木は 1931 年 6 月 20 日に神戸港から出立、8 月 27 日にヴィラ・アマゾニアへ到着した。ジュートの試験栽培だけを担当する専任者である。数日間、ヴィラ・アマゾニアの農業事情や付近の土地条件を調べたあと、9 月 1 日から作業を開始。ヴィラ・アマゾニアのラーモス水道に面したヴァルゼア( Várzea 、アマゾンの方言で河川増水期に冠水する川岸の低地)に圃場を用意。試験用の区画づくりをはじめる。
 助手は木内謙一(東京農業大学卒、アマゾニア産業研究所派遣第 1 回実業練習生)。品種別にそれぞれ 1 平方メートルの区画に仕切り、水が引いたあと 11 日ほどたった 9 月 12 日に播種。この日をもって、アマゾンにおけるジュート栽培がはじまったと解釈してよい。
 使用した品種は「サン・パウロ種」。在サン・パウロ日本帝国総領事館をつうじて入手したもの。サン・パウロ種は前年 8 月末に上塚司がサン・パウロで入手していたが、荒木はそれを使用しなかった。おそらく、1 年を経過した「古い種子」だったからであろう。
 播種して 2 日後に、サン・パウロ種はほとんど全部発芽した。荒木はこれらのジュートから、本試験用種子を採取したようである。第 1 回実業練習生が同年 6 月にもってきた「日本種」については、9 月 16 日に播種したが発芽率は悪い[注 11]。
 サン・パウロ種の第 2 回種子発芽試験は 10 月にフォルモーザ島で行われた。この島はヴィラ・アマゾニアからラーモス水道右岸にそって 5 キロメートルほど上流側に位置する。
 使用した種子について、荒木報告書「大アマゾニアニ於ケルジュートニ関スル試験研究」(発芽試験、1 p.)に、「印度カルカッタヨリ取寄セタルモノニシテ同地産ナリ 一九三〇年度結実種子」とある。文中、「一九三〇年度結実種子」とあるのは、「一九三一年度」のあやまりではなかろうか。インド産種子がヴィラ・アマゾニアへとどいたのは、 1931 年 11 月 16 日と 26 日である。また、播種試験をおこなったのは、10 月ではなく「 11 月末」だったはず。同報告書によると、結果はインド産種子が 2 日から 5 日で発芽したのに対し、日本産種子は「発芽不良」(発芽率 5 % )だった。ジュート種子は採種後、日時を経過するほど発芽率が低下する。
 荒木はヴィラ・アマゾニアの本部構内におけるラーモス水道右岸の低地で、木内はフォルモーザ島で試験栽培をおこなった。試験栽培に使った繊維植物はシナノキ科 (Tiliaceae) の 4 種。

• Corchorus capsularis L. カプスラリス(ツナソ、ジュート)
• Corchorus Olitorius L. オリトリウス(シマツナソ、ジューズマロウ)
• Hibiscus cannabinus L. ケナフ(洋麻)
• Crotalaria Juncea L. サンヘンブ(メスター)

 いずれも、「アマゾンにおける栽培は可能」との結論にいたった。ただし、カプスラリスをのぞく 3 種類は短繊維であるから、以後の試験栽培から除外した。アマゾニア産業研究所がめざすのは、ツナソであり、インドと同じ長繊維(長さ 3.50 m 以上)の収穫である。荒木の試作で、ツナソとシマツナソは 68 日目に 170 cm ~ 190 cm となった。木内試験では、インド種のカプスラリスが 64 日目で 200 cm ~ 210 cm にたっしている。たしかに、長繊維とはいえないが、ウアイシマと同じかそれ以上の長さであるから、商品価値がゼロというわけではない。ふたりとも「かならず長繊維はえられる」との希望をいだいていた。このあと、木内は家の事情で親元から「帰国せよ」との連絡をうけたため、ジュート試作をやめて日本へもどる。荒木だけが試験栽培をつづけた。
 インドからとりよせた「カプスラリスの種子」といっても、栽培品種はわからない。後年、中崎邦夫( Ciasa 営業部主任)が文献調査の結果を「アマゾニア産業研究所月報」(第 78 号~第 82 号)に紹介した。それによると、1930 年代のインドでは 73 種類ものジュートが栽培されていた。したがって、「インドからとりよせた種子」というだけにすぎず、栽培品種は不明。肝心な品種名が不明のまま栽培試験をはじめたのである。荒木の専門は林学であり、一般作物の栽培技術を習得していたわけではないから、まったくの手さぐりだったと推測される。
 ただし、使用した種子はインド産であることにまちがいない。ふたつのルートで調達され、それぞれ 1931 年 11 月 18 日と 26 日にヴィラ・アマゾニアへ到着した。このあと、1933 年 11 月まで、試作につかわれたのは、これら 2 種類のいずれかを母体とするものである。つまり、のちに( 1934 年 2 月末)、尾山良太が発見した長繊維ジュートの個体は、その第四世代種子だった(世代については後述)。
 荒木は長繊維抽出の可能性に期待しながら、ジュート栽培をつづけた。一般に、「すべて失敗だった」とつたえられる。上塚司自身もそのような記述をしているが、誤解をまねきやすい。草丈が短い段階で生殖生長期にはいったため、茎を刈り取らねばならなかった。だから、「商品価値の高い長繊維にはいたらなかった」ということである。
 短繊維と長繊維の相違は品質にあり、したがって価格差が大きい。短繊維にはウアイシマの取引価格が適用され、品質のよいジュートも安値でしか販売できなかった。魅力のない値段なので、「わざわざジュートを栽培するだけの価値はない」ということであり、技術的な失敗ではなかった。なぜなら、最初の試作で収穫したジュート繊維が東京へ送付され、品質分析の結果、「印度の中等品の上の部に位するものなり」[「アマゾニア産業研究所月報」第 85 号( 1938 年 8 月 1 日発行)、2 p. ]と鑑定されたからである。これは、ジュート取引の専門家が鑑定した結果であるから、いちおう信用できるであろう。同じ繊維サンプルを上塚司は、帝国製麻、大正製麻、東洋製絲紡績へとどけ、品質検査を依頼した。それぞれ、繊維が短い点を認めたうえで、同じ短繊維でも「インド産に劣らぬ優良品」と判定した。
 これらの企業経営者は、上塚司と直接または間接的な関係があるので、「業者のお世辞」という点も考えねばならない。そうであったとしても、まったく商品価値のない不良品でなかったとみてよいであろう。上塚司はそう判断し、ジュート栽培に対する確信を強めた。だが、アマゾニア産業研究所内部で、同じ考えだった者は少ない。1932 年度の試作も同じ結果に終わったとき、ヴィラ・アマゾニアでは、幹部職員のうち越知栄と荒木衛門だけがジュートに期待していた。粟津金六副所長、亀井満農事部長、村井道夫営業部長は最初から関心がない。農場係の田中三作(サトウキビおよびキャッサバ担当)、田端長之助(実業練習生の実地訓練担当)も興味を失ってしまう。東京本部の辻小太郎主事は、ジュートへの熱がさめ懐疑的態度をとりはじめた。
[注 9] 上塚司が荒木衛門と出会ったのは、熊本市内の旅館である。アマゾン事情に関する講演会が熊本市内および近郊で開催され、上塚は数日間、定宿である「研屋」に滞在していた。そこへ荒木がたずねてきた。荒木は鹿児島高等農林学校林学科卒の得業士。鳥取県農事部に就職したが、3 年間の内勤にいやけがさして退職。郷里(熊本県玉名市)でブラブラしていたところへ、上塚司の「大アマゾンを拓く」講演会があることを知った。アマゾン開拓に興味をもった荒木は、上塚をたずね事業構想の説明をうける。上塚の植民思想に共鳴し、ジュート試作担当者としてヴィラ・アマゾニアへいくことにした。なお、最初の出会いでどのような話し合いをしたかは、後年、荒木自身が「高拓会々報」へ寄稿し説明している[荒木衛門「ジュートと私」、高拓会々報第 91 号( 1981 年 8 月 31 日発行)所載]。

[注 10] 実業練習生とは、国士舘高等拓植学校卒業生のうち、アマゾンへ渡航した者をいう。この学校はアマゾン開拓の中堅幹部養成を目的に、 1930 年 4 月、国士舘(東京府下世田谷町)内に、各種学校として開設された。略称「高拓」。校長は上塚司。1 年間の教育課程(学科、武道訓練、農作業実習)を修了したあと、ヴィラ・アマゾニア(アマゾナス州パリンチンス市)のアマゾニア産業研究所施設「実業練習所」で、さらに 1 年間の拓植実務訓練をうける。実地訓練を修了した者は、近い将来設立される拓植会社の中堅幹部として、社内業務(直営農場、営業部、総務部など)を担当するか、会社経営の植民地で模範農家または営農指導員となる。高拓と実業練習所の両課程を修了した者を、上塚司は「高拓卒業生」とみなした。しかし、アマゾニア産業研究所内部では、「実業練習生」を正式名称とする。一方、高拓課程修了生の間では「高拓生」という名称が使われて、後年、これがブラジルにおける日本人社会へひろまった。なお、国士舘高等拓植学校修了生は第 2 回生までである。1931 年 10 月、国士舘の柴田徳次郎館長と上塚校長の間で、高拓運営方針にかかわる見解の相違を生じた。両者は袂をわかち、国士舘をでた上塚は、1932 年 4 月、東京高等拓植学校(神奈川県橘樹郡生田村、同年 5 月 30 日に「日本高等拓植学校」と改称)を開設。国士舘高拓第 3 回生として入学した学生をそっくり東京高拓へ移し、以後、両校の関係は断絶した。国士舘高拓第 3 回入学生として募集し合格した学生を、新設された東京高拓へ移籍した経緯は複雑である。このあと(同年 6 月)国士舘高拓は、あらためて入試を実施したが応募者はいなかった。「新入生全員の移籍」という異常事態について、きちんと説明できる資料はみあたらない。既存刊行物のうち、信憑性が高いのは、熊本好宏著「国士舘高等拓植学校と移民教育」(国士舘史研究年報「楓原」第三号所載)と、佐藤一也著「もうひとつの学校史」(「明治大学職員会会報」第 20 号、p.52-64 )だが、いずれも決定的な資料に欠けるためきちんと説明できていない。東京高拓が各種学校として認可される前に募集した点を考えると、可能性が高いのは「国士舘が上塚に名義を貸した」ということ[上塚・中野共著「上塚司とアマゾン開拓事業」 (110-112 p.) ]。上塚は国士舘の最高諮問機関である「国士舘維持委員会」のメンバーだったことから、名義貸与はじゅうぶんに考えられる。しかし、裏づけ資料がないので推測の域を出ない。

[注 11] 日本種の発芽試験結果について、荒木は「アマゾニア産業研究所月報」でつぎのように報告。
 ‥‥‥学生諸子が持ち来られたる種子は九月十六日ようやく水の引きたる所に十平方米くらい播種致候処発芽率は五十パーセントに達せざる次第にて本朝一寸くらいに伸張致し居候。又去る二十二日粟津所長の御言葉にて、当所よりリオ・ラモス カノア[中野注記= Canoa 、カヌー。リオ・ラモスはラーモス水道のこと]にて遡り約二時間を要する地点のイリヤフォモザ[中野注記= Ilha Formosa 、フォルモーザ島]に二十平方米位にサンパウロより得たる種子も日本よりの種子も試作致し申候二十六日には凡そ発芽致し申候‥‥‥[荒木衛門「ジュート播種の成績は良好です」、アマゾニア産業研究所月報第 6 号( 1932 年 1 月 1 日発行) 16 p. 所載]。なお、栽培試験の詳細については、荒木衛門による報告書「大アマゾニアニ於ケルジュートニ関スル試験研究」(アマゾニア産業研究所研究報告第壹輯)および木内謙一の報告書 「大アマゾニアニ於ケルジュートニ関スル試験研究」(アマゾニア産業研究所研究報告第二輯)を参照のこと。


1-5 ジュート試作の中断
 1932 年は、世界経済恐慌の影響がまだつづき、日本も不況のさなかにあった。上塚司がアマゾン開拓のため準備していた「拓植会社設立計画」は、資金問題があってすぐに実現できそうもない。会社設立の前に、アマゾニア産業研究所自体の資金繰りがむずかしかった。拓務省補助金(年額 5 万円)では、ヴィラ・アマゾニアにおける年間経費をまかないきれない。東京本部からの送金は遅れがちで、各種の作物栽培試験も計画どおり進めることはできなかった。
 そうした状況のなか、現地責任者である粟津金六は、開拓事業に見切りをつけ、1932 年 12 月 7 日、家族をともないヴィラ・アマゾニアから退去。その前、7 月下旬、亀井満農事部長も依願退職しサン・パウロ州へ去った。責任者不在では仕事にならない。上塚司は後任として辻小太郎の派遣を決定。辻は東京本部の主事であるから、残務整理をすませ、1933 年 2 月 3 日に神戸港から出立した。途中、リオ・デ・ジャネイロ市で在ブラジル日本帝国大使館との打ち合わせをし、4 月 20 日にヴィラ・アマゾニアへ到着。ただちに、部門別の事業進行状況をたしかめたあと、同月 26 日、あらたな事業方針と組織を発表した。
 方針のなかで辻は「ジュートの試験栽培打ち切り」を宣告。担当者だった荒木衛門を、農事部第二農場(コーヒー、グアラナ栽培)主任に配置転換する。この措置により荒木はジュート栽培から離れた。以後、10 月までジュート試作は中断される(ただし、やりかけだったフォルモーザ島におけるジュート種子の採取はつづけた)。同年 6 月、東京本部では、現地から郵送された報告書により「ジュートの試験栽培放棄」を知る。おどろいた上塚理事長は、「試作継続」を指示したが辻は放置する。この年、6 月から 8 月にかけて、アンディラー模範植民地造成計画のため多忙だったからである。
 同年 3 月 3 日、アマゾニア産業研究所東京本部は、上塚の個人拓務省補助金( 1932 年度は 5 万円)も年間 10 万円に増額された。これを資金に、パイロット計画として模範植民地を建設することになった。場所はバレイリーニャ市アンディラー地区。アンディラー河口右岸の高台である。そこへ第 3 回実業練習生(日本高等拓植学校最初の卒業生)を送りこみ、開拓の実地訓練をほどこす。その宿舎建築と、初年度の指導員として、第 1 回実業練習生(国士舘高等拓植学校 1931 年 3 月卒業生)のうちパリンチンス管内(ウアイクラパー地区)で開拓農業に従事していた十数名と、実地訓練を終了したばかりの第 2 回実業練習生(同 1932 年 3 月卒業生 34 名)が動員された。
 植民地本部施設(練習生宿舎、植民地事務所、売店、診療所、船着き場など)の準備は 6 月 13 日にはじまり、同月 21 日には第 3 回実業練習生がヴィラ・アマゾニアへ到着。直営農場で実習しながら、アマゾン農業について説明をうける。8 月 14 日にアンディラー模範植民地へ移転。原始林開拓の実習に従事する。
 こうした動きのなか、責任者である辻小太郎は、ジュートのことを考えるゆとりがなかった。東京本部からはしきりにジュート試作再開を催促してくる。同年 11 月に、第 1 回家族移住者( 6 家族)がヴィラ・アマゾニアへ到着し、アンディラー模範植民地で、実業練習所有志とともにジュート栽培をおこなう予定だった。それとは別に、木野逸作(日本高等拓植学校圃場担当講師)がヴィラ・アマゾニアへ移り、商業生産規模のジュート栽培を開始することも決まっている。そのための種子増殖、技術問題の検討、指導体制構築など準備すべきことがあった。農事部としてジュート研究をうちきるわけにはいかない。辻の個人的関心がどうあろうとも、試験栽培を継続しなければならなかった。
 第 3 回実業練習生を模範植民地へ送りこみ、原始林伐開作業が進行したことを確認すると、辻主事( 1936 年 10 月の組織改革で「支配人」に変更)はようやくジュートの試験栽培を考えた。上塚理事長の再三にわたる催促にもかかわらず、多忙を理由に放置していたのだった。9 月 27 日、農事部の組織を変更。高島義雄(第 3 回実業練習生、宇都宮高等農林学校卒)を「種苗園及び試作園主任」とし、各種作物の栽培試験をおこなうかたわら、ジュート試作を命じる。試作といっても、実際にやったのは種子増殖だけであり、専門的な試験研究はわずかしかできなかった。ほかの作物に時間をとられたからである。


1-6 インド種ジュートの第四世代種子
 ところで、上記の農事部再編によりジュート担当になった高島義雄は、1933 年 10 月 1 日付で種苗園の仕事をはじめた。以後、病気のため 1938 年 4 月に休むまで、この仕事をつづける( 6 月 13 日にヴィラ・アマゾニアを出発し日本へ帰る)。その間、尾山良太による長繊維ジュート種子の増殖を指導。みずからも増殖したほか、品種固定のため観察をつづけた。業務内容について記録が存在しないため詳細はわからない。
 ここで重要なのは、尾山良太が使った種子である。アンディラー模範植民地では、家族移住者のほか、実業練習所有志が川岸の低地でジュートを試作することになった(人数不明、15 人内外と推定される)。各自 0.1 ヘクタールとし、1933 年 12 月 30 日に種子の配給をうける。配給されたジュート種子は、フォルモーザ島で採取したもの。橋本四郎(第 2 回実業練習生)が野菜栽培のかたわら採取した。数量は約 760 kg 。1933 年 12 月 27 日にヴィラ・アマゾニアの営業部へ渡した。このうち 200 kg を模範植民地における試作に利用。荒木衛門が 1931 年末に播種した「インド産種子」から数えて、第四世代の種子だった。
 最初に播種したのは尾山良太で、1934 年 1 月 4 日(木曜日)のこと。10 日(水曜日)までに全員が播種を終えた。荒木と木内の試験結果から、播種後 60 日ころには開花しはじめることがわかっている。3 月上旬には収穫することになろう。
 尾山にとっては初めてのジュート栽培だったが、2 月下旬になって、生長の早い個体は花芽をつけはじめる。そのなかで、 2 本だけ、花芽をつけない個体をみつけた。3 月初めにほかの個体をすべて収穫したが、この 2 本だけは栄養生長をつづける。なかなか花芽分化がはじまらないので、尾山は興味をもって観察しつづけた[注 12]。
 異常個体を観察しながら、すでに栄養生長が停止した個体を収穫。ここで注目したいのは、尾山手記にある「刈り取りに当りて一本一本に注意しつゝ」[「アマゾン流域に於ける黄麻産業」 (12 p. ) ]という記述。荒木衛門も木内謙一も、「開花したなら収穫」という常識にしたがった。その時点で草丈が 2 メートルなら、「やっぱり伸びなかった」で終わる。
 栽培面積(各自 0.1 ヘクタール)が小さいので、収穫は 1 日か 2 日で終わってしまう。異常個体があっても草丈まだ低く、正常個体とかわらない。相違点はただひとつ、「花芽分化が遅れている」ということ。圃場をざっと見わたすだけでは識別できず、きわめて困難なことである。尾山は一本ずつ観察した。岡山県の藺草(いぐさ)産地で生まれ育ったが、藺草を栽培したことはなかった。しかし見て知っている。おそらく藺草とジュートの相違に興味があったのだろう。
 繊維を抽出してもさほどの金額にならない。好奇心の強い尾山は、最初から「試験栽培」を意識していたようである。だからこそ、異常個体の発見後、収穫方法を工夫した。ふつうは、茎の下部だけをみて、地表すれすれに切断する。収穫作業で花を注視する者はいない。尾山はまず花の有無をしらべた。たしかに着花していることを確認すると、その個体を刈り取る。そして、つぎの個体について花をチェックし、正常個体(着花と枝の派生により生殖成長期にはいったもの)だけを切り取った。だから、花のない個体を見つけることができたわけである。
 このような作業をおこなったので、すべてを収穫するまでに 10 日ほどかかった。その間に、花芽分化をせず栄養生長をつづけていた個体を 2 本みつけた。これを「偶然の所産」とはいいがたい。尾山は研究者の観察眼をそなえていたが、ほかの栽培者にそれがなかったことだけは確かで、「発見するべくして発見した」ともいえよう。
 同じ時期にヴィラ・アマゾニアでは、高島義雄がジュートを試作した。種子採取を目的としたので、生殖生長が終わるまで、すべての個体をそのまま圃場で生育させたが、異常個体はみつからなかった。このときの種子が、フォルモーザ島で採取された「インド種第四世代」であったのか、荒木衛門が 1933 年 4 月に採取した第三世代種子(約 130 g )であったのかは不明。木野逸作はアンディラー河口の対岸(ラーモス水道左岸)で試作。15 ヘクタールずつ 2 回にわけて播種し、時期を 2 か月ほどずらす。種子は、1933 年 10 月にカルカッタで受領したインド産と、一部はフォルモーザ島で採取したもの。1934 年 3 月に播種したが、いずれも短繊維で終わる。しかし面積が大きかったことから、木野がすべての個体を観察できたとは考えられない。
 ところで、「第四世代の種子」がどういう意味をもつのか。これまで、異常個体の出現について、短繊維種子のなかに長繊維種子が偶然まぎれこんだとする説(関係者の大半)、あるいは突然変異とする説(木内謙一)、さらには、「自然変化の道程をたどってできたもの」とする説(尾山良太)があった。第一の説は考えにくい。在カルカッタ日本帝国領事館が、三井物産カルカッタ支店をつうじて入手した種子である。ジュートの買付をしていた三井物産社員は、専門的知識をもっていた。彼らが数回にわたる種子調達で、「毎回ごまかされた」とは考えられない。ヴィラ・アマゾニアへ送付したカプスラリス種子は、「すべて長繊維種だった」可能性のほうが大きいであろう。
 第二の突然変異説については、荒木衛門、高島義雄をはじめ農学関係者らが否定するとおり、確率上、ほとんどゼロにひとしい。尾山が推測した「自然変化の道程」は意味不明。これを、「アマゾンの土地気候条件に順応した」と解釈するなら、尾山説が有力になる。
 ジュートを同じ熱帯圏で栽培する場合、気候よりも土壌条件がはるかに重要。ガンジス川デルタ地帯とラーモス水道のヴァルゼアでは、水運土といっても、土壌の性質はかなりちがう。異質な土壌で栽培して、種子に固有の性質(ここでは「長繊維となる遺伝子の作用」をいう)がすぐに顕現するとはかぎらない。とりわけ、土壌微生物相とアレロパシーを除外して論議するわけにはいかず、ガンジス川(またはブラマプトラ川)とアマゾン川の土壌における、「生物学的性質」の相違を比較すべきである。とはいえ、1930 年代の土壌学は、世界的にみてまだまだ低水準にあり、このような比較研究はなされていなかった。生物学的性質の解明は、第二次世界大戦後になってから進展した。だからこそ、突然変異や異種混入という憶測もでてきたわけである。
 土壌条件についていうなら、ジュート産地がガンジス河口およびブラマプトラ川下流域に限定されていた理由を考えねばならない。なぜ、ほかの土壌帯で生育しにくいのか。インドからもちだされた種子は、インドネシア、インドシナ半島、台湾、日本でも試作に供されたがすべて失敗。長繊維ジュートを収穫できなかった。ということは、生育しにくい理由があったはず。土壌微生物の作用やアレロパシーも考えられるが、「もっとも大きな要因は種子そのものにあった」という推測もなりたつ。つまり、インドの産地から運ばれた種子が、別な地域におけるあらたな土壌条件に順応するため、「数年の時間を要する」という仮説である。世代交代をつづける過程で、異質の土壌へ適応できる性質をもつにいたったのではなかろうか。
 荒木はフォルモーザ島で、同じ母体から生じた種子を 3 回つづけて栽培した。圃場の土壌になじみはじめる種子があらわれてもおかしくはない。そして、同島とアンディラー河口の土壌は、ほとんど同じ性質の水運土といってよく、尾山らは第四世代の種子を播種したのであるから、本来の性質をとりもどしたジュート個体が数本出現しても不思議はないはず。たまたま尾山の圃場で生じたわけだが、ほかの圃場でもありえたことである。そこで種子を採取し栽培するなら、第五世代あるいは第六世代になって、もっと多くの長繊維個体がえられた可能性も否定できない。要するに、「植物体の個別観察」をだれもしなかった点に問題がある。「花が開きはじめたならすぐに収穫」という常識にこだわりすぎた。すべてを刈り取ってしまったわけで、まだ栄養生殖期にある異常個体が存在しても発見できなかったであろう。
 高島義雄が尾山の依頼をうけて種子を増殖したとき、その種子は「異常個体の第三世代」だった。報告書では、「刈取適期(開花期)の平均草丈三米足らず」と記し、繊維の長さを不満とした。まだ完全に順応していなかったことを意味する。その後、「オヤマ種」と命名された種子は、くりかえし増殖されジュート栽培者へ配給された。その結果、1941 年度収穫以降は安定し、平均草丈も圃場による差はあるが 3.50 m から 4.00 m にたっしている。インドと同じ長さであり、品質はもっとよい。この点からも、初期の試作を阻んだ最大の要因は、土壌順応だったと推測され、「第四世代種子」の仮説もなりたつと考えられる。
 ジュート栽培に好適な土壌の種類や性質は、1930 年代にまだよくわかっていなかった。インドの産地から他の地域へもちだされた種子のうち、長繊維をえるまでに生長したのは、アマゾン地方が最初のケースである。初めはパリンチンス付近だけで栽培されたが、増殖された種子はアマゾナス州内各地で順応し、パラ州での適応性も確認された。第二次世界大戦後は、東南アジアのあちこちでも生育可能なことがわった。これらの事実から、世代交代による「土壌への順応」が要因とみなされる。だが、この件について解明した研究報告はみあたらない。
[注 12] 尾山良太がジュートの異常個体を発見した事情について、これまで「偶然の結果」としか説明されていなかった。だが、そうではない。尾山のするどい観察眼によるものである。荒木衛門の試作も、アンディラー河口における試作も、さらに、同じ時期に対岸(ラーモス水道左岸)で木野逸作がおこなった大規模栽培でも、開花がはじまったときすぐに収穫した。だから、異常個体があっても気がつかない。尾山は毎日圃場へでて、1 本 1 本観察した。花芽分化がはじまってからは、慎重に観察したので、異常個体をみつけることができた。この間の事情はほとんど知られていない。既存の刊行物に紹介されたのは、関係者の談話にもとづくもので、文書資料による裏づけはされなかった。だが、関係資料はいくつか現存する。第一にあげられるのは、「アマゾン流域に於ける黄麻産業」(拓務省が 1941 年12 月「海外拓殖事業調査資料第 44 輯」として刊行)。これを執筆した上塚司は、草稿を残している。草稿にもとづき書き改めた「アマゾンにおけるジュート栽培史」と題する手書き原稿も存在する。さらに、尾山良太書簡(上塚司あて、複数)にもかんたんな記述がみられる。これらの記述によると、上塚は 1940 年 5 月、参考資料とするため、尾山良太に「新品種発見について」手記を依頼。これを受けた尾山は経緯をまとめ、6 月 25 日付書簡の形で提出した。上塚はこれをそのまま「アマゾン流域に於ける黄麻産業」 (11-13 p. ) に掲載している。種子を採取したのは 6 月末だった。その間、ラーモス水道の水位が上昇し、アンディラー河口付近の低地は完全に水没。異常個体に支柱をそえたが、2 本のうち 1 本は水に流された。残る 1 本も、水没した茎が腐植しちぎれてしまう。水面近くの部分だけが残り、そこからあらたな根を生じて生殖生長をつづけた。水面に浮く水草のような感じで、支柱にしばりつけられていたという。したがって、本来の草丈を測定できない。長繊維だったかどうかを判定できたのは、種子増殖のため栽培したとき(第五世代種子によるジュート収穫時)である。

1-7 長繊維種子の増殖
 長繊維種子をえた尾山良太は、1934 年 10 月から増殖をこころみる。最初は降雨不足のため失敗。残り(数十粒)を 1935 年 1 月に播種し、同年 7 月に種子を採取。尾山は「相当量」と記すのみで、正確な数量は不明。採取した 10 個のカプセル(正常な生育における種子数は平均 10 ~ 12 粒)は充実していない。萎凋種子、腐敗種子がまじっていたため、正常な種は数十粒しかなかった。とすれば、「数十グラム」ていどのものと推測される。その半分(または 3 分の 1 )を播種して採取した種子を、さらに増殖した。つまり、2 度にわたる増殖結果であるから、種子採取量は「 500 g 以上 1 kg 以下」と推測される。
 種子量について疑問はのこるが、このうち 250 cc (高島報告書はこの量だけを容積でしめし重量を明記していない)を高島義雄へ渡して、ヴィラ・アマゾニアにおける種子増殖を依頼。残りの種子は尾山自身がアンディラーで増殖した。第 2 回目の増殖で、高島義雄は1936 年 2 月に 1.5 kg の種子を採取。このうち 500 g を手元に残し、1 kg を尾山へ渡す。尾山の採取量は不明。おそらく、3 kg 前後と推測される。
 これらの種子は、第 3 回目の増殖をめざし、1936 年 1 月初めから 3 月にかけて播種。尾山は自分で採取した分と、高島義雄から受領した分を試用。同年 6 月から 7 月にかけて 32 kg の種子を収穫。高島の手元に残った 500 g は、辻小太郎主事をつうじて中内義正へ渡る。辻は中内へ種子増殖を依頼した。いったん、ジュート栽培を断念した辻だが、尾山良太による長繊維ジュート発見を知ると、ふたたび関心をしめす。中内に Ciasa 所有地の一部を無償貸与。場所は会社本部とラーモス水道をへだてた対岸。
 中内が採種した種子の量は記録されていない。次期播種に関する報告書の記述にもとづき計算するなら、3 kg 内外と推測される。これらの種子を使い、尾山と中内は「商業目的による最初の栽培」をおこなう。同年 10 月(尾山)と 11 月(中内)に播種。乾期のさなかであるから、土壌水分の不足により失敗。12 月末の降雨を待ってやりなおす。かなりの種子を失ったので、ジュート繊維の収穫量は期待したほどではなかった。だが、良質の繊維をえたことで自信をつける。
 長繊維ジュートがえられることは、1936 年 2 月、高島義雄が種子を採取した時点ではっきりした。「固定された新品種」[注 13]と判断した高島は、同年 9 月、ヴィラ・アマゾニアへ到着した上塚司へ報告。これを聞き、上塚は「尾山種」と命名する。数年後にジュート栽培がアマゾン川下流地帯にひろまると、ブラジル農務省もこれを “variedade Oyama" (オヤマ種)としてあつかう。こうして、尾山良太の名は、新品種発見者として不滅のものになった。
[注 13] 長繊維ジュートの品種固定について説明した刊行物はみあたらない。「アマゾン流域に於ける黄麻産業」所載の高島義雄報告書 (11-13 p. ) に、かんたんな記述がみられるのみ。高島が「品種は固定された」と判断したのは、尾山良太と中内義正が種子採取のため栽培した、1936 年度播種ジュートである。同年 6 月から 8 月にかけて収穫。尾山良太が異常個体から採取した種子の第三代目。アマゾニア産業研究所が 1931 年に導入したインド種から起算すると第七代目にあたる。長繊維ジュートとしては 4 回目の収穫であるから、高島は短期作物の多くに該当する通例として、品種の固定を認めたわけである。この場合、品種名をつけるべきだが、高島は命名していない。1937 年 11 月 11 日、尾山と中内の功績をたたえるため、Ciasa およびベレン日本帝国領事館勧業部が表彰状を授与した際、上塚司が「尾山種」と名づけた。この名は、日本人の間でしか使われなかったが、第二次世界大戦後のジュート産業興隆期に、ブラジル農務省は “variedade Oyama” として認定(年度不明なるも 1950 年代初めと推測される)。以後、オヤマ種が正式な品種名となる。
2 アマゾンジュートの産業化 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros