ブラジルにおける日系農業史研究:「ブラジルのジュート栽培―日本人のはたした役割―」序
中野順夫(ブラジル農業研究者)
terça-feira, 21 de junho de 2016

目  次
はじめに

1 長繊維ジュートをえるまでの経緯
   1-1 繊維植物としてのジュート
   1-2 ジュート栽培の試み
   1-3 辻小太郎のアイデア
   1-4 荒木衛門による試験栽培
   1-5 ジュート試作の中断
   1-6 インド種ジュートの第四世代種子
   1-7 長繊維種子の増殖

2 アマゾンジュートの産業化
   2-1 最初の量産で新聞が激賞
   2-2 ヴァルゼアへ移動する生産者
   2-3 イタコアチアラ市役所との栽培支援契約
   2-4 パラ州におけるジュート栽培
   2-5 政府による法令整備

3 ジュート産業の盛衰
   3-1 強制接収された Ciasa
   3-2 戦時下におけるジュート栽培
   3-3 サンタレン製麻会社の設立経緯
   3-4 遅すぎた工場の稼動
   3-5 南北経済の統合

参考資料


はじめに

 このレポートは、「ブラジルにおける日系農業史」に関連して作成された中間報告書である。日本人および子弟にかかわる農業史は、サンパウロ人文科学研究所が、2016 年から 2017 年にかけての研究テーマとして設定した。日系農業史のなかでとりあげるべき事項のひとつに、「日系農家がブラジル農業発展史のなかではたした役割」というのがあり、比較的貢献度の高いとみられる分野は、十あまりを数えることができよう。とりわけ、つぎの 5 項目は重要とみられる。

 (1) アマゾン地方におけるジュートの導入
 (2) サン・パウロ近郊における野菜類の生産販売
 (3) サン・パウロ州における採卵養鶏の普及
 (4) サン・パウロ州における花卉栽培の普及
 (5) サン・パウロ州における農協づくりのイニシアチブ

 日本人が貢献したといっても、上記 5 分野における部分的な功績であることはいうまでもない。ジュートについては、長繊維ジュート品種を導入し、アマゾン地方の気候および土壌条件に順応させたこと。野菜・鶏卵・花卉類では、消費市場拡大のため「きっかけ」をつくり、初期の増産で牽引力となったこと。そして農協運動の分野でも、サン・パウロ州における興隆期( 1930 年代~ 1950 年代)のイニシアチブをとったこと。

 いずれも、目だちにくい事績であり、陰の功労ともいうべきものである。短期的に発揮されたリーダーシップは、線香花火のようなもので、一世紀にわたる日系農業史の途中でうしなわれてしまった。今日、知る人も少なく、思いだす人はさらに少ない。それぞれの分野における主導権という点に目をむけるなら、(2) から (5) については、ほぼ 1930 年代から 70 年代までの半世紀たらずである。ジュートにいたっては、1932 年のジュート試作から起算しても、1941 年までほぼ 10 年間にすぎない。

 日本人の農業がなぜ持続性に乏しいのか。きわめて重要な疑問のひとつとされ、深く分析する必要があろう。とはいえ、ジュートだけを対象に調査するのは片手おちで、総合的な判断が不可欠とされる。この件については、日系農業史のなかで考察する予定であるから、本レポートではふれない。なぜなら、日系農業史の調査段階における中間報告書であり、日本人の農業貢献にスポットをあてた概説にすぎないからである。したがって、さまざまな疑義を説明する最終報告は、「日系農業史」の形で提出されることになる。

 本レポートの中心課題は、「日本人によるジュートの導入」である。栽培成功につづく普及の牽引力となった。実質的貢献の期間こそ短いが、日本人移住史のなかで、ほかに類例のない特異なケースといえる。ジュートという原料作物の導入に成功した点は、これまでにも断片的な記述をつうじ評価されてきた。それ自体はめずらしいことではない。注目すべきは、日本からブラジルへ進出した企業のなかで、ひとつの産業を興隆させた唯一のケースだという点。

 第二次世界大戦後のウジミナス(製鉄)、イシブラス(造船)、トヨタ(自動車)のように、既存の業界へ参入し業績を伸ばしたケースとはまったくちがう。日本企業が最初からジュート栽培を目的に、インド産優良品種を導入し栽培に成功した。そして、短期間ではあるが、栽培普及と関連法整備でリーダーシップをとった。それがあったからこそ、国家経済の発展に資するひとつの産業が形成されたわけである。ブラジルにおける日本企業の移住史で、たったひとつの事業体が新産業を勃興させた例はほかにない。

 1930 年代のブラジルにとって、ジュート産業は、製鉄や自動車とは比較にならない重要なものと考えられていた。それだけに、成果もまた大きかった。だが、これまでに発表されたブラジルにおける日本人移民史関係の研究報告では、日本人および日本企業の「ブラジル国家に対する貢献」について、ほとんど目をむけていない。というよりも、多くの研究者は無視してきた。主たる理由は、この課題に関する文献があまりにも乏しいからである。このたび、日系農業史の資料調査をはじめるにあたり、「国家的見地にたって分析した日本人の貢献度」を考察することにし、まずジュート産業をとりあげてみた。

 だが、概説の域をでないので、詳細は別の研究を待たねばならない。日本人にかかわる農業史(通史および全般的な流れの研究)そのものが、移民史研究のなかで初めての試みであるから、各論の詳説は将来の調査にゆだねるのも、とうぜんのことであろう。ジュートに関する研究報告のなかで、日本人の事績を説明したものは、これまで 2 点しか刊行されていない。本間アルフレッドによる “História da Agricultura na Amazônia” (Embrapa, 2003) と、上塚芳郎・中野順夫共著「上塚司のアマゾン開拓事業」( 2013 年)である。いずれもまだ調査途上の段階における報告であるから、概説の域をでない。

 本レポートは、2013 年に作成した未定稿「アマゾニア産業研究所事績史」をベースとするジュート栽培小史である。要約の形をとったが、未調査だった項目もいくつか設定した。たとえば、サンタレン製麻会社の設立は、第二次世界大戦後の日本人移住再開にあたり、きっかけとなった事業計画である。戦後、日本企業のブラジル進出が再開されたとき、ジョイントベンチャー第 1 号となったが、この件も「ブラジルにおける日本人移住史研究」からはもれている。

 最後に、誤解しやすい用語について説明しておこう。本文および注釈のなかで、「アマゾニア産業研究所」および「アマゾニア産業株式会社」という事業体の名がでてくる。既存刊行物の大半は、「アマゾニア産業研究所をアマゾニア産業株式会社へ組織変更した」という意味の記述をしているが、まったくのあやまり。それぞれ独立した事業体である。アマゾニア産業研究所は 1930 年 10 月 21 日に任意団体として設立されたあと、1933 年 2 月 3 日に登記団体へ組織変更。1997 年 5 月 27 日に解散するまで存続(閉鎖手続き完了は同年 10 月 4 日)。

 「アマゾニア産業株式会社」( 1935 年 9 月 23 日設立)は、アマゾン開拓事業を主目的とする投資会社(本社=東京市)。第二次世界大戦後の「過度経済力集中排除法」にもとづく大蔵大臣命令により、1947 年 11 月 25 日の臨時株主総会で解散を決議(閉鎖登記手続きは 1948 年 11 月 10 日に完了)。同社の出資により、1936 年 1 月 5 日、ブラジル(アマゾナス州パリンチンス市)で設立された事業体が、“Companhia Industrial Amazonense Sociedade Anônima” (コンパニア・インドゥストリアル・アマゾネンセ・ソシエダーデ・アノニマ)、略称は “Ciasa” (シアーザ)である。投資会社(関係者は「東京本社」と呼ぶ)の名称をそのままポルトガル語に翻訳したが、関係者は日本語で「アマゾニア産業株式会社ブラジル支社」(たんに「伯国支社」または「ブラジル支社」)と呼んでいた。社内文書もこの名称が記述され、あるいは印字されている。1942 年 9 月 27 日、ブラジル政府が強制接収したあと閉鎖企業に指定。清算業務の完了により、1946 年 4 月 5 日、残存資産の競売をもって消滅する。日本とブラジルで、どちらも「アマゾニア産業株式会社」と呼んでいたため、ひじょうにまぎらわしい、混乱をさけるため、本レポートでは日本側本社をアマゾニア産業株式会社、ブラジル支社を Ciasa と表記する。

 もうひとつは「日系」という語。上記の説明中、すでに「日系農業」という言葉が掲出されており、以下の本文にも、日系農家、非日系農家という語が定義なしに使われている。「日系」の定義はむずかしく、あいまいな使い方との批判は避けられない。いちおう、日本人(日本からブラジルへ移住した日本国籍所持者)、および、彼らを始祖とする子弟(第四世代まで)を「日系人」とする。ほかに、「移住」「移民」「植民」という語も定義しにくく、ひじょうにまぎらわしい。本レポートでは、暫定的に同義(居住地を日本からブラジルへ移すこと)と解釈する。ほかにも、旧漢字、旧仮名遣い、送りがな、数字表記法などの問題がある。これらの件はすべて、最終レポートである「ブラジルにおける日系農業史」で明確にしたい。


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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros