ブラジルにおける日系農業史研究:「サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」(4)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
sexta-feira, 17 de março de 2017

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第 4 章 コチア組合対モジ組合の対立

1 モジ産業組合の経営事情
 モジ産業組合は、1933 年 3 月 8 日、既存の「モジ・ダス・クルーゼス農産物出荷組合」( Grupo de Transporte Coletivo de Mogi das Cruzes 、1931 年 10 月 18 日設立の任意組合)を改組し、「モジ・ダス・クルーゼス日本人産業組合」 (Sociedade Cooperativa Japoneza de Mogi das Cruzes) とした。最大の目的はトマト加工にある。だが、この事業は失敗する[注-38]。1935 年、「モジ・ダス・クルーゼス産業組合」 (Cooperativa Agrícola Mista de Mogi das Cruzes) と改称し登記。サンパウロ産業組合中央会(略称「産組中央会」)に加入して庇護をうける。
 トマトの加工場を建設し、大穴をあけたあと、どう処理したのか。モジ産業組合は、1932 年からモンテイロ商会(ポルトガル人、ロドリゴ・モンテイロ経営)と契約していた。この商人から「前払金」の形で 20 コントを借用。当座の資金繰りに充当した( 1933 年 8 月ころ)。だが、モジ組合はモンテイロ商会へ生産物を出荷しない。出荷すれば、販売代金から前貸し分が控除される。組合へ入金しなければ、組合員への精算はできない。だから、別の商人と委託販売契約をむすんだ。こうして数人から借金し運転資金を調達。危険な綱渡りだが、当時、リオの商人はこうした芸当をゆるすほどおおらかだった( 1950 年代までは生産農家に運転資金を貸すのも商人の仕事であり、ドンブリ勘定でも商売がなりたった)。
 かりにモジ組合がリオへ直営販売所を開設したなら、これらの商人からクレームがつき、営業できなかったであろう。もっとも、卸売市場内のボックス使用権を取得する資金もなかった。こうした事情はコチア側でも承知していたが、見解の相違による対立ではなく感情的反目であるから、徹底的に痛めつけようとする。コチアの下元健吉専務理事とモジの渡辺孝理事は、年齢と経歴の相違から仲が悪い。年長の渡辺は下元を「小僧」あつかいする。学歴コンプレックスの下元は、「コチア」という看板にかけても自分のメンツを立てようとする。両組合の反目といっても、実態はふたりのケンカにすぎない。その渡辺が、1934 年 7 月 14 日の臨時総会で理事長に選出された。
 臨時総会でトマト加工場について審議。さる 3 月から稼動停止の状態にあったが、正式に閉鎖を決議。野村金三郎理事長が引責辞職し、渡辺孝が後任となる。トマトをはじめ野菜販売について渡辺理事長は、組合員の自由意思にゆだね、リオ市場、サン・パウロ市場のどちらへ出荷してもよいことにした。
 この決定によると、サン・パウロ市場を選択する組合員は、コチア蔬菜部(=共同販売所)を利用できる。だが、アンチ下元である渡辺理事長は、利用させたくない。サン・パウロの卸売市場で複数の商人と委託販売契約をむすび、組合員には「そのいずれかを選択して出荷せよ」と指導。渡辺の圧力に、大多数の組合員はしたがった。
 「アンチコチア」「アンチ下元」という点では、ほかの組合も同じ。コチアにもうけさせるくらいなら、商人と委託販売契約をむすぶほうがよい。こういう考えだったので、最初から、共同販売所としてコチア蔬菜部の利用に消極的だった。モジ組合の総会決議を知ると、それに同調する方針を採択。「コチア蔬菜部販売所をなるべく利用しないよう」に行動した。8 月をつうじて、共同販売所への野菜出荷者が激減したのは、こうした理由によるものである。
[注-38] モジ産業組合は、1931 年 10 月、任意組合を産業組合に改組したとき、組合員の払込出資金をあてにして、1933 年 4 月にトマト加工場の建設計画を策定。すぐに着工した。だが、組合員はなかなか払い込まない。そこへ、7 月の降霜が発生しトマト畑は全滅。組合員のほとんどが零細農家であるから収入の道をとざされ、3 ~ 4 か月は生計を維持することすら困難だった。とうぜん建設資金は不足する。商人からの借入金で工事を継続し、同年 11 月に稼動となった。ところが、シロウトによる機械運転なので、技術的な問題が続出。製品の品質は市場の要求と合致せず、大部分が返品された。売るあてのない製品の滞貨に悩まされたところへ、1934 年 1 月、トマト相場は底値となった。製品は売れず組合員への精算もできない。同年 3 月に工場を閉鎖。あらたな借金で資金繰りをつづける。その間に、組合員の営農を野菜と採卵養鶏の組み合わせにきりかえ、1936 年にようやく財務事情を正常化させた。

2 反コチア勢力の台頭
 リオ市場に魅力を感じるコチア幹部は、早くリオの共同販売所を開設し、そこへ出荷したい。それができないのでいらだっていた。そして、「モジ組合の直営販売所でなければ、コチア組合員の生産物を出荷しない」とおどす。そのころリオへ出荷していたのはほとんどがモジ組合員。ほかの組合はサン・パウロ市場だけを対象とした。したがって、コチアが出荷しなければ、モジ組合の販売事業も増大しない。コチア側では商人との委託販売契約なら、「野菜農家大同団結の意味はない」と考え、モジ産組による直売方式を強要した。
 最初からこのような態度であるから、両組合の話し合いもうまくいくはずがない。モジ組合ではリオ販売所をすぐに開設する考えはなかったのに対し、コチア側は、リオ共同販売所を利用して販路を拡張しようと考えた。この点で、コチア側の態度は、「あまりにもムシがよすぎる」と批判されてとうぜんであろう。だが、当時すでに「大コチア」を自負する役員や幹部職員、そしてジャガイモと野菜を手がける組合員は、ゴリ押しの手をゆるめようとはしなかった。
 コチアはリオ市場で、西谷一男商会と委託販売契約をむすんでいた。だが、ジャガイモをふくむ野菜類の販売力は、モジ組合が契約していたモンテイロ商会がダントツである。だから、コチアはモジ組合にコンプレックスを感じていた。これも、両組合対立の間接要因とされる。理由はともあれ、コチア対モジの綱引きであり、それを見物するイタケーラ産業組合とジュケリー農産組合は、最初からモジ組合を応援した。それにひっぱられ、任意団体である各地の出荷組合も、生産量の多いところはモジ産業組合の側へまわった。多分に感情問題がからんでいたことも考えねばならない。コチア産業組合が孤立した形になるわけだが、こうした勢力関係の変化は、1934 年 6 月から 8 月の、わずか 3 か月間におこったことである。
 在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部から話がでたとき、イタケーラ産業組合もジュケリー農産組合も、渡辺と下元に対する遠慮から、会議の席で言動をつつしんでいた。だが、リオ販売所をめぐるコチア対モジの対立が表面化すると、コチアの高圧的態度に反感をいだき、モジ組合支援にまわるべく旗幟を鮮明にした。この点で、日和見していた各地の蔬菜出荷組合も同じだった。
 サン・パウロ郊外または近郊の日本人農家が組織した蔬菜出荷組合は、独自の販路をもたず、市営青果物卸売市場の商人へ販売を委託していた。いつも、商人の不正になやまされたほか、生産資材購入の問題もある。共同販売所計画により、こうした問題が解消されると期待した。サン・パウロ市の共同販売所はコチア蔬菜部販売所である。販路の大きいコチアが有利な販売を展開してくれるであろう。そして、必要な生産資材(肥料、農薬、種子、出荷用容器、農機具など)や食料品を安価に入手できる。当時のコチア産業組合購買部[注-39]は、サン・パウロ市および近郊をふくめた一帯で、もっとも安く生産資材を供給していた。
 最初は、モジ産業組合とイタケーラ産業組合をのぞき、各地区から共同販売所へ出荷されていた。発足当時( 1934 年 6 月 10 日)、近郊の日本人農家は 2,000 戸と推定されたが、ジャガイモ単作農家もあったので、野菜栽培者は 1,400 戸前後と推定される。そのうち、7 月末までに 641 戸、つまり半分近くが共同販売所を利用した。だが、8 月の 1 か月間に様相が変わる。
 モジ産業組合を盟主とし、イタケーラ産業組合とジュケリー農産組合が同調して、反コチア勢力をきずいた。といっても、共同販売所計画に正面きって反対したわけではない。それぞれの所属組合員に対し、共同販売所への出荷停止を指示した。さらに、各地の蔬菜出荷組合にも歩調を合わせるよう勧めた。説得のエサは、「コチア蔬菜部とは別の野菜販売所をもうける」というもの。コチアをのぞくほかの産業組合と出荷組合がひとつにまとまるなら、日本人農家が近郊で栽培する野菜の 7 割以上を確保できるであろう。
 これだけの数量をとりまとめれば、青果物卸売市場の商人をだしぬいて、サン・パウロ市場では最大の野菜販売組織をつくることができる。この説明にとびついた農家は多い。いったんコチア産業組合へ加入した者も、すぐに出荷を停止して、あたらしい組織へ鞍替えした。といっても、1934 年 8 月の時点で、組織はまだできていない。とりあえず、イタイン蔬菜出荷組合、イタケーラ蔬菜出荷組合(イタケーラ産業組合とは別の任意団体)、ボンスセッソ蔬菜出荷組合が統合。「サン・パウロ近郊蔬菜栽培者出荷組合」として、独自の販売を開始する。だが、販売所を開設するだけの資金はないので、モジ産業組合、イタケーラ産業組合、ジュケリー農産組合と同じく、青果物卸売市場の委託販売人(日本人)へ出荷した。
 こうして、アンチコチア勢力が台頭し、共同販売計画に蹉跌を生じた。しかし、コチア蔬菜部から離反する点で共通の考えだったが、野菜販売で統一行動をとったわけではない。「出荷物をとりまとめて有利な販売をする」という件は実行できないまま、別行動をとる状態がつづく。アンチコチア派の販売の統合が実現するのは、1936 年 1 月だが、委託販売であることに変わりなく、農家にとって有利とはいえなかった。
 在サン・パウロ日本国総領事館勧業部が仲裁にはいったものの、両組合は耳をかさない。最後は、サン・パウロ州農務局協同組合監督部がのりだし、モジ産業組合が「しぶしぶなっとく」という形で決着をみる。コチアのゴリ押しに屈したわけである。
[注-39] コチア産業組合購買部は、ピニェイロス本部のほか、セントロ地区のバラン・デ・ドゥプラー街 (Rua Barão de Dupurat, 292) にもあった。蔬菜部販売所の一部を仕切り、購買商品を配給。この販売所が「野菜共同販売所」となったので、生産物を出荷したなら、同じ場所で生産資材や食料品、雑貨などを「ツケ」で購入できる。まもなく、共同販売所は卸売市場内へ移転するが、コチア購買所までの距離はわずか 300 メートル。当時の感覚からいうと「ほとんど同じ場所」といってよい。ちなみに、1934 年、卸売市場付近に購買所をもうけていた日系組合は、コチア産業組合だけである。どこの組合にも加入していない農家にとって、この便利さは魅力的だった。

3 カペーラ地区のモジ組合員
 リオ市場を重視していたモジ産組は、組合員が出荷する野菜の大半を、リオ市場へ送付していた。だが、一部はサン・パウロ市場でも販売した。市営青果物卸売市場の商人(日本人)数名と委託販売契約をかわし、それぞれへ葉野菜を委託。少量であるから、有利な販売はむずかしい。だから、コチア蔬菜部の共同販売所へ出荷したいと願う組合員もいた。富樫栄之助(1933 年度専務理事)をリーダーとするカペーラ区の野菜栽培組合員( 15 ないし 16 戸)である。
 1934 年 6 月、共同販売所が開設されたとき、富樫は加藤金三郎組合長とともに、積極的な態度で臨んだ。ところが、モジ産業組合の臨時総会(同年 7 月 14 日)で、トマト加工事業失敗の責めを負い加藤理事長が辞任。後任に渡辺孝が選出された。富樫と渡辺孝は折り合いが悪い。臨時総会で渡辺孝理事長、佐川義信専務理事の体制ができあがると、自身も理事のひとりでありながら、執行部にはそっぽを向く。
 リオとサンパウロのいずれへ出荷しようと、組合員の自由選択にゆだねられていたとはいえ、新任理事長である渡辺孝は、ずっと以前からの「アンチ下元」である。なにがなんでも、コチア蔬菜部との取引を阻止したかった。したがって、富樫グループの行動は、モジ産業組合執行部に反旗を翻したのと同じことになる。理屈や事の是非はともあれ、組合にとって好ましいものではない。富樫は前専務理事として組合員に対する影響力がつよく、かんたんに追い出すこともできず、渡辺にとって「目の上のタンコブ」となった。
 しかし、富樫としても、正面切って渡辺理事長とあらそうわけにはいかない。あらそえば、除名処分されるであろう。その場合、コチア産業組合が組合員としてうけいれてくれるかどうか。だから、1934 年 9 月以降、モジ産業組合はコチア蔬菜部評議員会をボイコットしたが、富樫は「モジ地方代表」という名目で毎回出席した。モジ産業組合が形式だけでも共同販売所計画を放棄しないかぎり、富樫らカペーラ地区の組合員はコチア蔬菜部へ出荷できる。とはいえ、このような変則的販売方法がいつまでもつづくはずはない。だから、1935 年にはいるとすぐ、富樫は安達茂一郎(コチア蔬菜部主任)をつうじ、コチア産業組合がカペーラの農家グループを、「一日も早く組合員としてうけいれるよう」要請した。
 もっともなことではあるが、コチアの理事会としても、へたな動きはできない。ほかの組合や主要出荷組合が共同販売所を利用しないとはいえ、総領事館勧業部の「連合会構想」白紙撤回されたわけではない。モジ組合がリオ販売所を開設すれば、サン・パウロ近郊農家の統合も可能だとみていたからである。「サン・パウロ市場はコチア産組、リオ市場はモジ産組」という約束はまだいきている。コチアの下元専務理事はモジ産業組合幹部との対話をつづけようと努力した。
 1934 年度末決算( 1935 年 3 月 31 日)までには、なんとか妥協点をみいだしたいと願ったが、両組合の合意にはいたらなかった。というよりは、モジ側が対話を拒否したため、話し合いの場をもうけることができない状態にあった。その間に、コチア側では内部機関紙「聖西月報」をつうじて、状況および理事会の方針を説明。さらに、モジ産業組合のあやまりを批判しあるいは糾弾する記事まで掲載した[注-40]。
 聖西月報と「日伯新聞」をつうじた両組合の論争がつづくなか、論点はしだいに共同販売所の目的からそれていく。最初は、リオ市場へ共同販売所を開設する件で議論した。つぎは、サン・パウロ市場の共同販売所における、コチア産業組合の一方的リードが批判された。そして、1935 年になると、モジ組合のカペーラ地区在住組合員が問題視される。彼ら十数名が、モジ組合を脱退しコチアへの加入を希望した。これをモジ産業組合理事会は、「コチアによる引き抜き」と解釈。同時に、「コチアによる縄張り荒らし」と決めつけた。
 こうした表現はおだやかでない。だが、いったん感情的対立におちいった両組合は、言葉尻をとらえた論争を展開。本来の問題がどこへいったのかわからなくなる。リオの共同販売所はどうでもよかった。それよりも、コチア産業組合が、「非組合員の生産物を販売している」ことが問題だった。これは、サン・パウロの青果物卸売市場内で指摘され、市役所担当課がコチア産業組合へ通告。さらに、商人グループと結託し、コチアに対してのみ、入荷税(市場内にあるコチア販売ボックスへの出荷野菜に対する税)の監視をきびしくした。一方、サン・パウロ州農務局協同組合監督部も、「野菜出荷農家をすべてコチアへ加入させるよう」指導した[注-41]。
 あやまりを理解したコチア産業組合は、非組合員へ組合加入を勧めることにした。4 月上旬、蔬菜部を利用する日本人農家のうち、非組合員に対し、「コチア組合へ加入するように」との勧誘状を発送。この文面があらたな論点となる[注-42]。
[注-40] 聖西月報は内部機関紙であっても、外部の者が入手するのは容易。モジ産業組合幹部はこれらの記事を読んでいた。だからこそ、ますます態度を硬化させたわけである。コチア側では、こうした批判や糾弾とは別に、1935 年に入るとすぐ、富樫らカペーラ組をコチア産業組合へ加入させるための手を打ちはじめる。なぜかんたんに移籍できなかったのか、事情は複雑である。最大の論点は、協同組合の活動領域に関する法規定。1932 年 12 月 19 日付大統領令第 22239 号では、農業生産者による協同組合の活動地域を限定していない。定款で規定すればよいので、コチアの場合「本部所在地(サン・パウロ市)のほか、必要におうじてほかの市域に支所を開設することができる」とした。つまり、ブラジル全国どこでも活動でき、モジ産業組合の組合員が脱退し、コチア産業組合へ加入することは法的にみとめられる。ところが、モジ産業組合では、これを違法と判断。「コチアがモジ組合の縄張りへ侵入してきた」と喧伝した。両組合の論争となったため、富樫らはモジ産業組合を脱退するのは危険と判断。しばらく様子をみることにした。

[注-41] サン・パウロ州農務局協同組合監督部の説明で、共同販売方式に関する手続き上のあやまりに気づいたコチア産業組合理事会は、富樫栄之助ら非組合員の問題を合法的に解決しなければならないと考える。だが、組合の活動領域を誤解していたから、対策を講じるにしてもかんたんではない[1935 年当時の協同組合法によれば、市境をこえて事業活動を拡大するのは合法だが、コチア産業組合もモジ産業組合も「本部所在地の市域をこえてはならない」と誤解していた]。いろいろ考えた末、3 月 30 日、野菜栽培集団地ごとに選任された代表者による「地方代表者会議」を開催。席上、下元健吉専務理事は、上記の違法問題について説明。サン・パウロ近郊蔬菜業者連合組合構想にもとづく野菜類の共同販売所を維持するには、「至急に連合会を組織するか、それができなければ出荷者全員がコチアに加入しなければならない」という選択肢を提示した。

[注-42] 勧誘状というのは名目であり、実質的には、上記の決議を周知徹底させるための通達書である。文中、「正式加入組合員の勧誘に猛運動を開始することになった。貴下積立の精農貯金を此際組合出資金に振替へて正式に加入されたい。本部ピニェイロスへ来て組合員名簿台帳に署名して頂きたい」との記述がある。精農貯金とは、コチアの組合貯金制度であり、組合員が生産物代金の精算をうけるとき、「すぐ必要としないカネ」を組合に預金する。上記の勧誘文では、貯金残高を出資金に振り替えるよう勧めているが、コチアへの加入強制にほかならない。勧誘状を受領した富樫が、モジ産組の渡辺孝理事長へ提示し、「コチアとの関係を我々にとって有利な形で解決してほしい」と要請。「コチアへの加入強要」と解釈した渡辺は、とうぜんながら激怒。この勧誘状をめぐり、モジ産業組合とコチア産業組合のあらたな論争がはじまる。モジ側は、「コチアはモジ組合員の引き抜きをはかっている」と解釈したため、両組合の関係はますます険悪なものとなった。


4 論争のなかカペーラ出荷組合を組織
 もともと、勧誘状は渡辺理事長を刺激するために作成したものである。渡辺理事長が激怒すれば、富樫らカペーラ組もモジ組合から脱退しやすい。結果はそのとおりになった。勧誘状を読んだ渡辺理事長は、すぐにサン・パウロへ出張。在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部へ事情を説明し意見をただしたあと、コチア産業組合蔬菜部販売所へいき、安達茂一郎主任と話す。どちらも不得要領な返事だった。
 出張の結果を、4 月 20 日のモジ産組理事会で報告。さらに、モジ産業組合定款第 65 条の規定、「組合員は本組合と同一の目的を有する他の産業組合に加入し又は加入の予約を為すことを得ず」を引用し、コチアの勧誘状が不当であることを指摘。
 そして、コチア蔬菜部の共同販売所は、「聖市近郊蔬菜栽培業者連合会ができるまでの一手段、一階梯である」と強調する。共同販売所はあくまでも暫定措置であるから、モジ組合員に利用を強要できない。前年の総会決議、「サン・パウロ市場における販売は各人の自由にゆだねる」ということを再確認。渡辺は、「私は今後も此の方針で進むべきだと考えています」と述べる。
 それなら、富樫グループは「いつでもモジ組合を脱退し、コチアへ加入してよろしい」ということになる。しかし、ホンネはそうしてもらいたくない。だから、コチア批判を世間(ブラジルにおける日本人社会)にひろく知らしめるため、この報告書を邦字紙「日伯新聞」( 4 月下旬)に投稿した。一般に「声明書」として知られる。さらに、同じく「日伯新聞」( 1935 年 6 月 12 日付)に「不都合な言葉」と題してコチア産業組合の非をなじる。
 一方、コチア側では安達主任が「聖西月報」(第 27 号)に、反論を寄稿。これを読んだ渡辺理事長は、ふたたび「不都合な言葉」という題名で、「日伯新聞」( 8 月 7 日付)に再反論を投稿した。たがいに「お前が悪い」とどなりあうだけの、じつに幼稚なケンカにすぎない。だが、両組合が四つに組んでの大相撲である。日本人農家の間では、このケンカが格好の話題となった。
 その間に、モジ産組組合員のうち、まず富樫栄之助をリーダーとするカペーラ組十数名が脱退。6 月上旬のことである。そのとき、コチア産業組合では、富樫宅に付随する倉庫をつかい、「カペーラ出荷組合」とした。そして、購買商品の配給をはじめる。サン・パウロ市まででかけなくても、生産資材や食料品が安く入手できるため、モジ・ダス・クルーゼス市管内の農家が、コチアへ加入するべく申し込む。8 月末には、モジ管内の組合員が 30 名をこえていた。全員がモジ組合脱退者であり、とくにスザノ地区在住者が多い。共同販売所が開設されたとき、西岡隆一、杉本馬治、滝川音吉、内藤克俊ら 8 名がスザノ出荷組合をつくり、コチア産業組合へ加入した。彼らの影響もあって、すでにモジ産業組合組合員となっていた者も、脱退してコチアへうつる。スザノ地区の日本人は、比較的まとまりがよかった。
 コチア産業組合の行為を違法とみなす渡辺理事長が、だまっているはずもない。同年 9 月から 12 月初めにかけて、州農務局協同組合監督部を 3 回訪問。アマラル部長と面談し、「コチアがモジ組合の領域へ侵入し、組合員の引き抜きをやっているから、やめさせてほしい」と訴え、監督官の派遣を要請した[注-43]。
 協同組合監督部はこの訴えに耳をかさない。渡辺理事長は法廷係争へもちこもうと考えた。モジ産業組合の強硬な態度をしっておどろいた、在サン・パウロ日本帝国総領事館は調停にのりだす。1935 年 8 月、同総領事館勧業部が調停に失敗していることから、同年 12 月上旬、市毛孝三総領事が両組合代表を招集。和解をすすめるもうまくいかなかった。モジの渡辺理事長もコチアの下元専務理事も、市毛総領事の高圧的態度に反発し、「総領事のでる幕ではない」とばかりに、調停案を蹴ったからである。
 総領事の調停が失敗に終わったあと、コチアの下元健吉専務理事は、州農務局協同組合監督部へおもむき、前から面識のあるオターレ監督官と話し合う。同監督官は、カペーラ組がモジ組合を脱退したのも、コチア組合へ加入したのも法律に抵触しないことを説明。さらに、カペーラに開設したコチアの購買部出張所についても、「必要あって設置したことであるから、なんらさしつかえない」と断言した。そして、12 月 27 日、オターレ監督官は下元を帯同しモジ産業組合を訪問。渡辺理事長と直接話し合う[注-44]。
[注-43] モジ産業組合の渡辺孝理事長は、サン・パウロ州農務局協同組合監督部へ、コチアの違法行為をうったえたが、アマラル部長はとりあわなかった。コチアが市境をこえてモジ市域に拠点をもうけるのは、当時の協同組合法に照らし合法と判断されたからである。同部長はコチアシンパであるが、法規定にもとづく判断である。相手にされないので、渡辺理事長は、「法的手段にうったえるのもやむをえない」とし、訴訟の準備をはじめる。これを知っておどろいたのは、総領事館勧業部である。報告をうけた市毛孝三総領事は、コチア産業組合とモジ産業組合の代表を総領事館へ呼びつけた(日付不明、12 月 10 日前後と推測される)。だが、総領事の調停は不調に終わった。どちらも感情的になっているため、コチア側は理屈を述べるだけ。モジ側は「聞く耳をもたない」という態度をみせる。もっと前(同年 8 月 30 日)に、勧業部の江越信胤主任が同じことをやって失敗した。市毛総領事は個人的に下元健吉をきらっており、コチア側の譲歩を強く求めた。しかし、理屈で押しとおそうとする下元は屈しない。市毛総領事は、「御上の御威光」をちらつかせる高圧的な態度で、調停案にしたがわせようとした。コチア代表に対しては、カペーラ出荷組合購買所を閉鎖し、組合員をモジ産業組合へもどすことを強要。モジ代表へは、リオ販売所を至急に開設するよう勧告。だが、強制的言辞は両組合代表をいらだたせただけで、なんの効果もなかった。

[注-44] モジ組合をおとずれたオターレ監督官は、渡辺孝理事長に「コチアと和解する意思は毛頭ない」ことを確認。そして、「それではやむをえない。コチア産業組合がモジ地方の農家を組合員として加入させ、必要な施設をつくるのは協同組合法に抵触しないから、モジ組合としてもこれを認めねばなるまい」と述べ、コチアの出先機関(購買所)を認めさせようとした。渡辺理事長は、「それでは仕方ありません」と答えたため、問題はいっきょに解決した。モジ組合を辞去したオターレ監督官は、下元のほか渡辺理事長をともない、モジ市役所へおもむく。市長に対し、「コチア購買部のカペーラ出張所は正式な出先機関である」と説明。市役所としてもその認識にたって対処するよう勧める。市長が同意したので、つぎは州財務局モジ支署へいき、署長へも同じことを説明。さらに、「正式なものであるから協同組合に対する免税措置を講じるよう」要請した。署長はこれを承諾。渡辺理事長立会のもとに、コチア出張所の合法性が確認され、免税措置まで講じられることになった。


5 コチアのモジ進出
 コチアがモジ地方の農家を組合員とすることは合法。カペーラ地区に購買所をもうけることも合法。したがって、モジ産業組合がコチアの行為を違法とするのはあやまり。これらの件を説明し、渡辺理事長をなっとくさせ、「しかたありません」との言質をとりつける。これで、モジ組合対コチア組合の紛争は、形式的ではあるがいったん終熄。同時に、総領事館の「連合会構想」は事実上消滅した。そして、野菜共同販売所の組織も空中分解する[注-45]。
 オターレ監督官が介入したことにより、富樫栄之助らカペーラ地区の日本人も立場がはっきりした。天下晴れてコチア組合員と認められたわけである。そして、富樫が個人的につくった「カペーラ出荷組合」は、コチア産業組合の下部組織となった。購買所も正式に、コチア産業組合購買部モジ支所となったので、つぎの手続きは地方倉庫開設である。
 地方倉庫 (Depósito Regional) はコチアの内部用語で、日本でいう「農協支所」を意味する。1935 年当時、コチア産業組合に地方倉庫は存在しなかった。1933 年 12 月、コチア市ヴァルジェン・グランデ地区(現ヴァルジェン・グランデ・パウリスタ市)に、購買部支所をもうけただけ。このたび、モジ支所もできたことから、これらふたつを、地方倉庫とするよう決定、1936 年 4 月 1 日付で、「ヴァルジェン・グランデ地方倉庫」と「モジ・ダス・クルーゼス地方倉庫」を開設。コチアの地方進出がはじまる。
 ところで、「近郊蔬菜連合販売所」は、発足当初から利用者数はあまりふえなかった。なぜなら、コチアをのぞく各組合(および出荷組合)とも、組合員数が急激にはふえなかったからである。そして、1937 年 5 月 31 日、イタケーラ産業組合を中心に、いくつかの蔬菜出荷組合が統合され、「聖市近郊組合」( Sociedade Cooperativa Agrícola Suburbana da Capital) が設立される。通称「スブルバーナ組合」。これにより、上記の連合販売所は分解し、各組合が別々の方法で野菜販売をおこなうことになった。結局、サン・パウロ市内または近郊を本拠地とする日本人の農協で、野菜部門が発展したのは、コチア産業組合、モジ産業組合、ジュケリー農産組合、スブルバーナ組合である。
 余談ながら、コチア対モジの抗争で「台風の目」となった富樫栄之助は、その後どうしたか。1938 年、フェルナンド・デ・ソウザ・コスタ農相の要請をうけ、コチア産業組合がサンタ・クルース植民地(リオ郊外の国営植民地、1933 年開設)へ組合員を斡旋することになった。同年 6 月末、サン・パウロ州リンス地方のコチア組合員が現地入りする。つづいて、7 月、富樫はモジ地方の仲間をひきいてサンタ・クルース植民地へ移転。以後、同地で野菜づくりをつづける。2016 年現在、かつての日本人集団地は住宅街に変貌。畑地はほとんどみられないが、富樫一族(孫)はまだ同地で生活している。
[注-45] 在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部が、1934 年 4 月にもちだした「サン・パウロ近郊日本人野菜栽培農家連合会構想」は、コチア産業組合とモジ産業組合の抗争に、「形式上、終止符がうたれた」ことで消滅した。だが、勧業部は正式に廃案としたわけではない。うやむやになったということである。年が明けて 1936 年 1 月になると、共同販売所の空中分解がはじまる。任意組合で最後まで共同販売所へ出荷していた、サン・ベルナルド・ド・カンポ産業組合(松本龍一理事長)が脱退し、モジ産業組合グループへ参加。これにより、ジュケリー農産組合、イタケーラ産業組合をふくめた 4 組合が結束した。サン・パウロ近郊における日本人野菜農家の生産量からいうと、7 割くらいをおさえたことになる。モジグループは、サン・パウロ市場の安田友次郎と委託販売契約をむすび、「近郊蔬菜連合販売所」という看板を掲げた。これをもって、コチア蔬菜部による共同販売は終わったとみなされる。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros