ブラジルにおける日系農業史研究:「サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」(5)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
sexta-feira, 28 de abril de 2017

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第 5 章 野菜は食生活の必需品

1 工業化と生活様式の変化
 リオ市とサン・パウロ市における野菜需要の増大は、生活様式の変化と関連する。生活が変わった背景には、市役所による都市化[注-46]と工業化[注-47]にかかわる政策があった。社会的、経済的発展をもたらしたふたつの現象は、市民の経済生活をレベルアップすると同時に、文化水準をも向上させた。こうした事情が素因となって、両市における野菜消費が伸びたわけであるから、説明をはぶくわけにはいかない。
 サン・パウロ市の中心部は、1880 年代の建築ラッシュまで、セー広場からアニャンガバウまでの間。北はカルロス・ソウザ・ナザレー街、南は現在のジョアン・メンデス広場までだった。これからはずれた地区は「郊外」と呼ばれ、貴族階級の別荘地(西から西南にかけての一帯)か、貧民の居住区(とくにリベルダーデ区)である。1870 年代から 1880 年代にかけて、イタリア人貧民が大挙して移住したことにより様相も変わる。コーヒー農場からにげだしたイタリア人の多くは、サン・パウロ市へと流れ、郊外に集団居住地を造成した[注-48]。
 ブラス区からモオカ区にかけては、イタリア人経営の町工場と労働者居住区になる。一方、1870 年代後半、中心部の古い建物が解体され、新築ラッシュがはじまると、貴族階級と成金族は郊外へと移転。レプブリカ広場から西側、レプブリカ、サンタ・セシリア、イジエノポリス、ヴィラ・ブアルケ、コンソラサンの各地区が富裕層の居住区へと変わっていく。1891 年、パウリスタ大通りが開設されると、両側にコーヒー貴族 (Barões do café) と呼ばれる成金農場主の邸宅が建築された。そして、ベラ・ヴィスタ区が住宅地帯になる。
 低所得層は、ボン・レチーロ、パリ、ブラス、リベルダーデにバラック小屋を建てる。ポルトガル人、イタリア人、ドイツ人の野菜畑は、ベレン、モオカ、カンブシー、ヴィラ・マリアナ、ピニェイロス、ラッパに散在した。中心部はパリと比較されるほどに近代化が進んだ反面、労働者階級の居住区は、建築文化とはかけはなれた貧民窟である。だが、まずしい労働者によってサン・パウロの町工場が成立し、工場利益によって郊外が宅地化した事実は否定できない。
 そして、既述のとおり、これらの工場労働者が野菜消費の主力となったのである。一方、東北ブラジル地方からの貧民は、1920 年代以降に急増するが、すぐには消費経済に参入しなかった。食習慣がちがうからである。一世代(約 30 年)経過した 1950 年代に、ようやく子弟が賃金をかせぎ、19 世紀の食生活から脱却。野菜や加工食品を食べはじめた。
 労働力がふえたことで、町工場はますます増大。順次、機械を導入し生産規模を拡大した結果、1930 年代のサン・パウロ市は、国内最大の工業都市となっていた。19 世紀末とはまったくちがう外観をみせ、中心部(商業地区)、高級住宅地区(西側郊外)、工場地帯(東側郊外)という区分が明確になった。商業都市から工業都市へと経済発展する過程で、人口増、消費増がつきまとう。野菜類の消費需要は、イタリア人をはじめとするヨーロッパからの移住者が牽引力となり、工場労働者の間で定着。リオをしのぐ消費都市へと変貌していった。
 サン・パウロ近郊の日本人が野菜を増産しはじめた 1930 年代は、いろいろな意味でまだ過渡期だった。だが、消費人口の増大、購買力の高揚、野菜生産量増大は、ほぼ同じリズムで進行した。工業化は、1930 年代前半のコーヒー不況期に、急激な伸びをみせたことから、この 10 年間はサン・パウロ市民が、工業製品を利用した文化生活をいとなむきっかけづくりをしたとも解釈できる。文化の向上は消費をうながし、まっさきに食卓を改善するから、とうぜんながら、野菜消費もふえていく。日本人は、この波にうまく乗ったということができよう。
[注-46] 都市化というのは、一般に、「人口増大とそれにともなう市街地面積の拡大」と解釈されている。19 世紀のブラジルでは、「中心部におけるモダンな建築物の出現」という意味がくわわる。建物にかぎらず、街路整備(幅員拡張、舗装、街路樹、街灯)、路面電車、橋梁架設、上下水道、公園開設、広場の花壇づくりなどをふくめた、市街地全体の近代化および美化をいう。リオ市とサン・パウロ市では、1830 年代から 1940 年代にかけて、中心部における貴族屋敷が解体され、商店および住宅が建築された。これらの建物はいずれもポルトガル風の設計である。1870 年代にイタリア人建築家がやってきて、サン・パウロ市の中心部の景観を一変させた。市役所は都市美化計画にしたがい、ポルトガル風建築物(当時のヨーロッパでは時代遅れといわれた)を解体。イタリア風の役所や商店、スイス風シャレー住宅を新築し、中心部(現在のセー広場からアニャンガバウまでの区間)を大改造したわけである。ただし、三階建てまでの建築物であり、高層建築はまだなかった(四階建て以上の建物は 1910 年代後半から出現)。同じころ、リオ市では、19 世紀前半に新築された建物(二階建て商店および住宅)が維持されていた。1903 年から 1905 年にかけて、セントラル大通り(現リオ・ブランコ大通り)の幅員拡張計画をきっかけに、都市化が促進される。両側に四階建てのビルがならび、パリを模倣した景観に変わった。これより、ブラジルの主要都市における高層建築ブームがはじまる。

[注-47] ブラジルは長年にわたり、ポルトガルの植民地だったことから、工業の発展がおくれた。植民地時代は、ブラジルで産出される一次産品(農業生産物、地下資源)を本国へ輸出するため、意図的に工業的加工を禁止していた。1822 年、ブラジルが独立したあと、イギリスとの通商協定にしたがい、工業製品を同国から輸入することになったため、ブラジル国内における製造はいちじるしい制約をうけた。1844 年、イギリスとの協定が破棄されると、ポルトガルの商人が工業製品を供給。ブラジルにおける加工事業は、ポルトガル商人だけに許される特権を確保した。したがって、ブラジル国民は、勝手に道具類や日用品雑貨、あるいは加工食品(ビール、清涼飲料、ビスケット、缶詰、スパゲティなど)や衣料品を製造することは、ほとんどできなかった。製造許可を取得できたのは、ポルトガル商人か、ブラジル在住のポルトガル人資産家である。しかし、1880 年代になると、製造業に関する規制が緩和され、「機械を使わず、技術的に低レベルの製造業または手工業」が自由化された。この措置により、まずリオ市で手工業がめばえる。同じ 1880 年代、イタリアからの移住者がサン・パウロ市に集中しはじめると、彼らのなかから、町工場を開設する者があらわれた。こうして、ふたつの都市で、低レベルながらも小規模工業が成長していく。

[注-48] 1870 年代半ばより、サン・パウロ市へ流入したイタリア人貧民は、主としてブラス区に定住。郊外とみなされていたブラス区は、1880 年代には「ブラジルのイタリア町」といわれるほど、イタリア人の数がふえていた。ほとんどが無職である。生計を維持するため、靴磨き、新聞売り、小間物売りなど、路上の商売をはじめた。女性は、黒人女にまじって野菜の流し売りをはじめる。1880 年代をつうじて、同じイタリア人のなかで資金を携行してきた者が町工場を開設すると、貧民は工場労働者となった。工場はブラス区、カンブシー区、モオカ区に集中したことから、これら三つの区は、イタリア人の集団地となった。


2 奥地における野菜栽培
 野菜を栽培したのはサン・パウロ近郊だけではない。サン・パウロ州内奥地に形成された日本人集団地では、最初から 1 戸ないし数戸の野菜づくりがいた。しかし、消費市場から遠く離れているため、輸送が困難だったことから、たいがいは域内消費にとどまる。それでも、もよりの町が発展し人口も増加してくると、町のフェイラでも売るようになった。
 市街地の住民へ野菜を販売するにあたり、太平洋戦争前に移住した人たちは、いろいろな場で思い出を語っている。たとえば、「ブラジル人は野菜を食べる習慣がないので、売るのに苦労した、料理の方法まで教えてやらねばならなかった」といった回想である。同じ内容を記述したものも多数存在。たしかに、苦労したではあろうが、「売れなかった」というのはあやまり。売り方をあやまったにすぎない。サン・パウロ州の場合、ほかの州よりは野菜を売りやすかったはず。だが、日本人は日本的販売方法に固執し、ブラジル式販売を考えなかった。日本と同じつもりで、「人の多い町なら売れるだろう」と早合点したわけである。
 ブラジルでは今日でもそうだが、あたらしい商品を一般市民に売るのはむずかしい。なじみのないものには、手をだそうとしないからである。もうひとつ重要な点は、低所得層はあたらしいものに飛びつかなくても、富裕層は関心をしめすということ。農産物をふくめ食品については、「カネ持ちのご婦人連」にじゅうぶんな説明をし、試食させれば購入してくれる[注-49]。1920 年代、1930 年代のサン・パウロ州で、この方法を実施したなら、もっとかんたんに野菜を普及させることができたであろう。だが、だれも考えなかった。
 太平洋戦争前に開設された日本人の大きな集団地、たとえば、海外興業株式会社のレジストロ植民地、ブラ拓のバストス移住地、チエテ移住地、アリアンサ移住地、トレス・バーラス移住地では、日本人が 500 戸以上の集団をなしていたので、野菜需要も多かった。日本人が 500 戸以上も在住すれば、域内販売でも野菜の商売はなりたつ。とはいえ、輸送手段の問題があるので、域外販売はむずかしい。ましてや、奥地からサン・パウロ市へ野菜を送付するのは、ジャガイモ、タマネギ、ニンニクをのぞいて「困難だった」といえる。
 野菜類全般を考えると、1950 年代にはいるまで、サン・パウロ市場への出荷可能範囲は、サン・ジョゼ・ドス・カンポス市(東)、イビウナ市(西)、リオ・グランデ・ダ・セーラ市(東南)、イタペセリカ・ダ・セーラ市(西南)、カンピーナス市(北)までであったろう。サン・パウロ市場の需要も、この範囲内の供給でみたすことができた。それより遠くからの出荷は、1950 年代にはいってから可能になる。
 もっとも、太平洋戦争前の奥地農業はコーヒーとワタが主作物で、1930 年代にサトウキビ栽培が急速に拡大した。大規模機械化農業へむかって、あらたな発展をしはじめたころである。そうした環境のなかで、小規模野菜果樹園芸は育ちにくかった。奥地で商業生産がペイするのは、地方における人口増加にともない、農村地帯の中核都市が消費都市へ移行するようになってからである。たとえば、リベイラン・プレト市、バウルー市、プレジデンテ・プルデンテ市など。それは、道路網整備とも関連し、1970 年代以降のことだった。
[注-49] 野菜にかぎらず、あたらしい商品を普及させるにあたり、「まず富裕層へ売りこむ」というのは、ブラジルにおける常識である。それを知らなかった日本人は(今日でもこの常識を理解する者は少ないが)、野菜果実をいきなり一般大衆へ売りこもうとして失敗。上流家庭の主婦に試食させ、だれかひとりが、「これはよい」「この野菜はおいしい」と満足したなら、すぐに隣近所あるいは知り合いの婦人仲間へ話す。聞いた人は、「それじゃ、ちょっと試食してみようかしら」となって、口コミでつぎからつぎへと伝わっていく。食品に関しては、ほかの広告宣伝手段よりも確実で普及が速い。地方都市でも同じこと。最初のターゲットは、市長、裁判官、市会議員、弁護士、医者とすべきである。彼らの間で野菜摂取が定着してから、低所得層にまでひろまるには、少なくとも 10 年を要する。逆の手順なら、10 年経過しても普及のみこみはとぼしい。富裕層の婦人連を相手に野菜販売を成功させた例は、ふたつ記録されている。ひとつは、1934 年から 1935 年にかけて、アマゾニア産業研究所がパリンチンス市(アマゾナス州)で成功。もうひとつは、1936 年、コチア産業組合が、サン・パウロ市の富裕層居住区で野菜の巡回販売をおこない顧客を獲得した。このあとコチアは、1939 年に鶏卵の巡回販売でも成功している。

3 サン・パウロ近郊農業の変化
 サン・パウロ州の全般的な都市化傾向と道路網整備は、たしかに、奥地農業を変貌させたが、サン・パウロ近郊農業にも影響した。1940 年代から 1950 年代にかけて、人口膨張がつづくサン・パウロ市は、農産物の集散機能がそなわってくる。当時の輸送手段は鉄道であり、サン・パウロ近郊はリオ近郊よりも鉄道網が発達していた[注-50]。
 幹線であるサントス=ジュンディアイー鉄道、モジアナ鉄道、ソロカバナ鉄道、セントラル鉄道のほか、北部ではパウリスタ鉄道、アララクアラ鉄道、サン・パウロ=ミナス鉄道(通称「コーヒー鉄道」)もあった。これらの鉄道を利用し、コーヒーをはじめワタ、トウモロコシ、インゲン、コメ、ジャガイモ、サツマイモ、バナナ、オレンジなど、各種の農産物がサン・パウロ市へ送られてくる。だが、安価な生鮮野菜はサン・パウロ近郊にかぎられていた。これを変えたのは日本人農家といってよい。
 1910 年代半ばからサン・パウロ近郊へ集団地を形成しはじめた日本人は、1920 年代になると、サン・パウロ市の西、北、東の 3 方面へ拡散し、野菜栽培に従事。1930 年代、ジャガイモ生産者が、さらに遠方へと移動しはじめる。それに付随して、サン・パウロ市から 50 キロメートルないし 100 キロメートル圏内に、あらたな野菜産地が形成された[注-51]。幹線道路といっても、幅員もせまく未舗装であり、野菜のトラック輸送にはこのましくない。サン・パウロ市場への出荷に鉄道を利用した。サン・パウロからピエダーデ市まで、道路の幅員が拡張されていたので、この方面だけは自動車輸送が可能だった。しかし、アチバイア、ブラガンサ・パウリスタ方面は鉄道がなく、道路事情も悪い。マイリポラン駅まで悪路をトラック輸送するのに難儀した。
 日本人農家が遠方へむかって放射状に拡散したことから、野菜産地もひろがっていった。1950 年ころには、イタペチニンガ市(西)、モジ・ミリン市(北)、ピンダモニャンガーバ市(東)、レジストロ市(南)までの範囲に野菜産地ができ、サン・パウロ市場へ供給していた。そのころ、サン・パウロ市の青果物卸売市場は、メルカード・グランデではなく、市営カンタレイラ市場だった[注-52]。野菜専門の卸売市場である。果実類の小売販売は、市営パウリスターノ小売市場(通称「メルカード・セントラル」、1933 年 1 月開業)でおこなわれ、卸売販売は、カンタレイラ街および付近の街路に商人が倉庫をかまえていた( 1966 年、セアザへ移転するまで果実専門の卸売市場はなかった)。
 カンタレイラ市場には、半径 100 キロメートル圏内の産地から野菜が出荷された。その多くはサン・パウロ市内で消費されたが、遠方から地方仲買商も買付にきた。この市場は、野菜の集散機能をそなえるにいたったわけである。1940 年代はまだ緩慢なうごきだったが、1950 年代には国内最大の集散地となり、1960 年代の道路網整備で、ほかの追随をゆるさない巨大な農産物市場として発展。この変化にともない、サン・パウロ近郊農業も様相が変わる。
 サン・パウロ市場むけ野菜の出荷圏は、1960 年代後半、半径 300 キロメートルに拡大された。ジャガイモ、トマト、キャベツ、キュウリなど、遠方に大きな産地が形成されたからである。他方では、サン・パウロ近郊に大規模工場が進出し、サント・アンドレー市、サン・ベルナルド・ド・カンポ市、サン・カエターノ・ド・スル市、グアルーリョス市などが工業地帯に変貌。中小工場はイタイン・パウリスタ区からポアー市、アルジャー市へと拡散していった。
[注-50] リオ市は 1763 年に副王府が設置されてより、ブラジル植民地の首府として発展した。だが、格別の産業がなかったため、ほかの地方都市は発展しなかった。一方、サン・パウロ市は、植民地時代はもちろん、帝政時代も発展がおくれ、田舎町にすぎなかった。それにもかかわらず、1880 年代以降、急速に発展したのは、コーヒー産業に負うところが大きい。そのためにヨーロッパ人が移住し、サン・パウロ市の都市化と工業化をうながす。コーヒーの増産は輸送手段としての鉄道網を発達させた。最初に敷設されたのは、サントス=ジュンディアイー鉄道( 1867 年)。つづいて、モジアナ鉄道(ジュンディアイー=リベイラン・プレト間、1875 年)とソロカバナ鉄道(サン・パウロ=ソロカバ間、1875 年)。同じ 1875 年、セントラル鉄道のサン・パウロ=モジ・ダス・クルーゼス間が開通。1877 年にはタウバテー駅まで延長される。1889 年、カンタレイラ鉄道(サン・パウロ市内サンターナ駅=カンタレイラ駅間)が敷設され、1907 年にはサンターナ駅からメルカード・グランデ駅まで延長された。そして、カンタレイラ駅から奥は、ジュケリー駅、フランコ・ダ・ロッシャ駅をへて、タイパース駅(現ジャラグアー駅)でサントス=ジュンディアイー鉄道に接続される。

[注-51] 1930 年代をつうじて、日本人のジャガイモ栽培農家は、幹線道路に沿って遠方へ移動。西のラポーゾ・タヴァーレス道路では、ヴァルジェン・グランデ(コチア市)、サン・ロッケ、マイリンケからピエダーデにまで点在。北のアニャングエラ道路ぞいに、ジュンディアイー、カンピーナスで日本人集団地を形成する。東北のフェルナン・ディアス道路では、アチバイア、ブラガンサ・パウリスタがジャガイモ産地となった。東は道路事情が悪い反面、鉄道便を利用できた。奥地から転出した農家が、セントラル鉄道沿線に土地を取得し野菜作りをはじめた。日本人もおなじで、1920 年代をつうじ、ジャカレイー市、サン・ジョゼ・ドス・カンポス市、タウバテー市に散在。やがて、それぞれの町で集団地を形成する。

[注-52] メルカード・グランデは 1867 年に開設されてより、野菜取引の中心をなしていた。1907 年の改築後は卸売市場として機能した。1933 年、市営パウリスターノ小売市場(通称「メルカード・セントラル」、日本人は中央市場ともいう)ができて、果実類の小売販売はこの施設へ集中(カイピーラス市場の小売商人が移転)。1930 年代前半、カンタレイラ鉄道メルカード・グランデ駅付近の交通が混雑してきたのにくわえ、路面電車の新路線が敷設された。交通緩和のため、市役所はメルカード・グランデの閉鎖を決定。野菜卸売取引の代替地として、市営カンタレイラ市場を開設した( 1937 年 1 月)。パウリスターノ市場の向かい側、カンタレイラ街とカルロス・ソウザ・ナザレー街にはさまれ、裏はバラン・デ・ドゥプラー街に面する。1966 年、セアザ(州営配給センター)が開業し、卸売業者がすべて新施設へ移転したあと、野菜専門の小売市場となり今日にいたる。ただし、1988 年、日本人ブラジル移住 80 周年を記念し「市営金城山戸小売市場」 (Mercado Municipal de Kinjo Yamato) と改名。


4 アメリカナイズの影響
 サン・パウロ市場における野菜販売事情を説明するにあたり、第二次世界大戦後の社会事情がどう変わったかを知っておかねばならない。大戦はブラジル人の思考と生活習慣を大きく変える素因となったからである。共和革命が封建社会から自由社会への転換をもたらしたとするなら、第二次世界大戦は、19 世紀の名残をすてさり、現代社会生活への足がかりをつくったといえよう。先進国への道をふみだす転換期でもある。とくに、食生活はまったくちがったものになる。
 戦後まもなく、アメリカ文化と生活様式がブラジルへもはいってきた。1950 年代をつうじて、とくにサン・パウロ市で若者の間に定着。いわゆるアメリカナイズである。たとえば、自由恋愛、広告の氾濫、パン食の普及といったものは、それまでの古い考え方を根本からくつがえす、斬新なものだった。日本とおなじく、若者がとびついてふしぎはない。
 アメリカナイズといっても、ここで考察するのは、野菜に直結する食文化である。ブラジル植民地を建設したポルトガル人は、ほかのヨーロッパ諸国と同じく、パン食民族である。だが、植民地の大部分が熱帯圏に属するため、コムギを栽培できなかった。だから、先住民の食習慣にならい、キャッサバ粉とインゲンを主食とした。ときたま、タピオカデンプンでパンをこしらえたが、主食でなく間食である。ポルトガル人が採択したこの食習慣は、開拓農家であれ貴族階級であれ共通している。植民地時代にかぎらず、帝政時代、そして共和体制になってからもつづいた。
 事情が少し変わるのは、19 世紀末、ヨーロッパ人がふえてからである。サンタ・カタリーナおよびリオ・グランデ・ド・スルで植民地を建設したヨーロッパ人は、コムギを栽培し域内自給をおこなう。サン・パウロ州内に農場を開設したイタリア人も、1910 年代からコムギを植えはじめた。サン・パウロ郊外で製粉し、市街地の富裕層へ販売。また、イタリア人自身もパンを焼き、パスタをつくった。だが、第二次世界大戦後のアメリカナイズで、事情は急速にかわる。アメリカの農業技術が導入されると、コムギの品種改良が進んだからである[注-53]。
 コムギは高価であるから、低所得層にとって「高嶺の花」だった。だが、サン・パウロ市内で工場労働者として賃金をうけるイタリア人、ドイツ人は、パンを購入した。この習慣は 1960 年代をつうじて、サン・パウロ州内の地方都市にまでひろまり、人口数千の小都市でもパン屋の商売が成り立つようになる。
 パンの普及は野菜消費をうながす。なぜなら、パンと野菜サラダをセットにしたのが、アメリカの食文化だったからである。サンドイッチのひとつに、アメリカーノ (Sanduíche americano) というのがある。パンに生野菜(レタス、トマト、タマネギ)をはさんだもの。これがサン・パウロの若者にうけ、どこのバール( Bar 、大衆飲食店、1950 年代まではチーズやソーセージなど若干の食料品も販売)でも売るようになった。1970 年ころには、サン・パウロ州内、津々浦々にまでひろまり、これをきっかけにサンドイッチの種類も多様化した。
 ともあれ、第二次世界大戦前にサラダといえば、イタリア人の食べ物だったが、サン・パウロ市内では、戦後のパン食普及により低所得層にまでひろまった。地方都市へと波及するのは時間の問題。1970 年代にはアマゾン地方をのぞくほとんどの地域で、野菜サラダが定着。野菜需要喚起の有力な手段となった。
 サラダの種類がふえたのはとうぜんのこと。さらに、別の野菜料理が考案され、各州の首都になっている都市では、野菜需要が急速に増大。1980 年代になると、国民ひとりあたりの平均消費量は少なくても、人口 20 万人をこえる中都市でも、野菜料理に関するかぎりヨーロッパの先進国と肩をならべるにいたった。とくに、葉野菜の消費が増大し、食文化の向上に貢献する。
[注-53] コムギ増産はブラジル農務省に課された優先策といってよい。1950 年代はこの課題ととりくんだ。南部の高原だけでなく、サン・パウロ州でも栽培できるような品種の作出と、栽培コスト引下の工夫である。1950 年代後半には、いくつかの栽培品種が作出された。ちょうどそのころから、ガウショ(リオ・グランデ・ド・スル州出身者)の移動がはじまった。最初は南パラナ。クリチーバ=フォス・ド・イグアスー間の道路建設が決まると、グアラプアーヴァ市からカスカヴェル市の区間にガウショが進出。コムギ(冬作)とダイズ(夏作)の組み合わせで生産活動にはいった。1960 年代になると、パラナ川をこえてマット・グロッソ州南部(現マット・グロッソ・ド・スル州ドウラードス地方)でも、ガウショの数が増える。同じくコムギとダイズを栽培。1960 年代後半は、南ゴイアスとマット・グロッソ州中部(ロンドノポリス地方)。ここでもコムギを栽培した。こうして、ガウショの手によって国産コムギがふえていく。

5 野菜料理の多様化
 では、野菜料理とはどんなものをいうのか。まず、野菜サラダ。20 世紀にはいり、イタリア人が普及させたサラダは、レタス、トマト、タマネギの 3 点セット。トマトとタマネギを薄く輪切りにする。これを皿にもりつけるとき、レタスの葉を大きいまま 1 枚か 2 枚、皿に敷き、その上にならべる。食べるとき、オリーブ油、食酢、食塩、コショウで味つけする。きわめてシンプルなサラダだが、野菜を食べる習慣のなかった低所得層も、味つけが気に入って食べはじめた。そして、今日なお、バールにおけるサラダの定番とされる。
 もともと、食用油と食塩はブラジルの先住民が使っていた調味料である。食酢はほとんど使わなかった。コショウもアマゾン地方にのみ野生種が自生していただけなので、ほかの地方で利用することはなかった。だが代替品はいくつもある。とくに、スパイス類は枚挙にいとまがない。だから、ポルトガル人は開拓初期に先住民から、香辛料植物を教えられるとすぐに使いはじめた。もちろん、サラダに辛みはつけないが、肉料理、魚料理にはトウガラシを使うことが多い。
 きわめてシンプルだった野菜サラダは、アメリカ文化の導入によってどんどん変わっていく。食材として、キャベツ、タイサイ、ハクサイ、ロケット (キバナスズシロ) 、コーンミント、コリアンダー、パセリ、エンダイブ (Escarola) 、チシャ (Chicólia) 、ネギ、シソ、オランダガラシ、セロリといった葉野菜の利用がふえてきた。さらに、キュウリ、ピーマン、ハツカダイコンも、生鮮野菜としてサラダ材料とした。
 それだけではない。ジャガイモ、ニンジン、サラダビート、サヤインゲン、グリーンピース、ケール、ホウレンソウ、カリフラワー、ブロッコリー、ハヤトウリ (Chuchu) 、ミドリナス (Jiló) 、キャベツヤシ (Palmito)も、いったん煮るかゆでて食材とする。
 こうした野菜サラダは、アメリカ特有のものではないが、1950 年代におけるアメリカナイズに触発された結果といえよう。工業化により増大した中産階級(主として商工業成金)が、旧貴族文化へのあこがれを放棄し、アメリカの技術とともに文化をもとりいれようとした。生活習慣のなかで最初に変わったのが食事である。従来のブラジル食にこだわらず、アメリカおよびヨーロッパの料理をまねた、いわば「混交料理」が急速にひろまっていく。
 野菜を食材とする料理で、さまざまにアレンジされ、調理法が多様化したのは煮物であろう。19 世紀までの煮物料理といえば、まっさきにインゲンがあげられる。これをアレンジしたフェイジョアーダ[注-14 参照]も、植民地時代からあった。もうひとつ、代表的な煮物は内臓料理[注-54]。これは農場主の家族だけが口にできた「特別なごちそう」である。肉や魚の煮物料理は、野菜の利用によってアレンジされた。以前は肉だけ、あるいは魚だけを煮た。20 世紀後半になると、野菜をいっしょに煮る方法が一般化する[注-55]。
 毎日の食卓に炒め物も登場するようになった。中華料理(野菜炒め)のアレンジである。タマネギ、ケール、キャベツ、ハクサイ、ピーマン、トマト、ナス、ミドリナスなどがよく使われる。炒め物としては、近年、ヤキソバの普及はめざましい。1980 年代以降、日本人が各種の祭典やイベントで、ヤキソバ専門の屋台をだした結果、ひろくブラジル人に知られるようになった。サン・パウロ市では 1990 年代後半から、こうした屋台の主たる客はブラジル人であり、2000 年代になるとサン・パウロ州内の地方都市へとひろがった。
 野菜需要を喚起した要因で、もうひとつ見逃せないのは、高級レストランの料理。1970 年代まで、ステーキを注文すると、肉だけがでてくる。1980 年代から少しずつかわり、タマネギ、ピーマン、ニンジン、ジャガイモなどを焼いてそえるようになった。いわば、「刺身のツマ」といった感じである。1990 年代になると、シイタケやシメジをそえたり、キノコだけの料理も登場。こうした食肉に野菜をそえる工夫は、すぐに上流階級へひろまり、そこから中産階級へとつたわり、さらに低所得層へとひろまっていく。
[注-54] 農村地帯では、野生動物の肉が手にはいったとき、または牧場で飼育する家畜(ウシまたはブタ)を屠畜するときに、内臓を料理した。ブッシャーダ (Buchada) またはファッターダ (Fatada) と呼ばれる。植民地時代には牧場主や農場主の家族だけが口にできる「ごちそう」だった。18 世紀後半になると、農村地帯におけるブタの飼育がひろまり、零細農家もブタの内蔵料理をあじわう。帝政時代にはいり、リオやサン・パウロでは市街地の住民も、ブタの内蔵を入手できるようになり、庶民の食べ物としてひろまった。南部地方の農家がブタを屠畜する習慣は、1960 年代までつづいた(北部では 1990 年代までつづく)。だが、1970 年代にはいると、屠畜および食肉とりあつかいに関する衛生法規が強化され、しだいに廃れた。その間に、都市部では住民の嗜好が変わる。今日のサン・パウロ市はもとより、州内で内臓料理をつくるのは一部のレストランだけ。一般家庭ではめったにつくらない。なぜなら、家畜の内臓は若者にうけいれられず、「ゲテモノ」として敬遠されるようになったからである。

[注-55] 野菜を肉や魚といっしょに煮る料理は、19 世紀半ばころまで、貴族階級をはじめ富裕層の「ごちそう」だった。野菜はたいがい根菜類である。キャッサバ、カボチャ、サトイモ、ヤマイモ、キクイモ、タロイモ、パースニップ、ダイコン、ニンジンなど。ほかにカボチャ、キャベツ、ハクサイ、ケール、オクラを使うこともあった。根菜類は、ひと口では食べられないほど大きく切る。東北ブラジルの海岸地帯では、味つけにパーム油(アブラヤシの果肉から抽出した赤色の硬化油)を使う。代表的なのはバイアのモケカ (Moqueca) 。白身の魚またはエビを具材としていたが、第二次世界大戦後はジャガイモをいっしょに煮こむレストランがでてきた。やや内陸(海岸から直線距離で 50 km ないし 100 km の地帯)では、同じ調理法の獣肉料理もモケカと呼ぶ。内陸地方ではパーム油を入手しにくいところもあり(高価なので販売しない)、ふつうの食用油と赤の着色剤(ウルクンと呼ばれる植物色素)をつかう。そして、味に特色をだすため、若干の野菜類とさまざまなスパイスを添加する。1960 年代以降のサン・パウロ市では、肉の煮物に野菜を使う方式が庶民にまでひろまったため、野菜需要をうながす一因となった。

第 6 章 野菜流通における日本人 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros